日本の行く道


橋本治氏の「日本の行く道」を読み終えた。


ぱっと見には相互の関わりが読めないテーマや、一見破天荒に見えるような話に、導かれるままに引っ張り回され、一体どうなるのだろうかと思っていると、最後にそれらが無駄なく一筋の主張に収束していくという、橋本氏らしい一冊であった。
日本の行く道 (集英社新書 423C)


それなりにまとめて紹介しようと思ったのだが、「要するに」とまとめられない、あらゆる箇所が省略されることを拒む「必然性」を持って迫ってくるのが橋本さんの本の特徴で、少しやりかけてあきらめてしまった。
試みに、目次をあらためて読み直してみたけれど、目次さえうまく圧縮して紹介できない。


未来を考えるとは、子供のありようを考えることだ、というところから始まって、子どもの自殺、いじめの変容、世の中の「学校化」。さらには、ここ40年の教育の変化のキモになる部分と、その帰結のひとつでもある、「自立」ということばの流行と、もてはやされるようになった(今はもう忘れられつつある)経緯と、その影響。
単純に統計的に見る中で「世界の転換点」となりそうな1960年代前半を挟んで、それまでとその後にあらわれたものを、馬鹿正直に区別していくと、いまでは(公式にも)認められて当たり前になっている考えの中に、その前ではあり得なかったものがいくつも混じっていること、そしてそれらが、へんてこな、さまざまな位相における自滅への道を後押ししていることが見えてくる。
そんな「考え」や「主張」が「普通」になっていく源をたどれば、時代や場所によってまったく変わってしまう産業革命の重みや意味が、あまりに単純かつ平板に受け取られていることや、日本の近代化の経緯に端を発する特殊な「きっかけ」が、看板と内実の異なる国家を生み、看板が求めるようには国民が成熟する機会がなかったこと。そして、困っているのは国民ではなく、国家としての立場だけであること、にたどりつく。
「国民」の側を、「家」や「会社」についてたどっていくと、人の力に頼り、システムとして「家族」を敷衍して活用してきたことが、いきなり到来した産業革命の中で、後進から一時的に先頭に躍り出るまでになった日本の「特殊事情」だということ、そしてそれは、もてはやされなくなったから瀕死になっているけれど、別になくなってはいないし、それが「生きる」状況の中では今も力を持っていること、つまり「本当は困ってなんかいなかったこと」がわかる。
「豊かさ」が人を翻弄し、「景気」という言葉の意味が疑わしくなっている中で、景気を成り立たせている人たちは決して世界の幸せを考えていない、という当たり前のことにもっと気がついた方がいい。狭い、最近のたかだか数十年の経験であれこれ決めてしまうのでなく、未来を考えるときの選択肢を、もっと広く、大きく求めた方がいいよ、という話で終わる。


うまくないことを承知で書くとこんな具合か。


橋本氏の著書を読むと、自分がどこを「そういうもの」と判断停止のままに受け入れているか、に気がついてはっとする。
はっとするまでに結構疲れてしまったり、はっとした後に、それで済まずにさらにそれ以上の深みへと引っ張って行かれて、終わってみると翻弄された心地よさしか残っていなかったりする。
もうちょっと、頭がタフにならなきゃな、とずいぶん昔から思っていて、何というか、年季を積んだらタフになって、翻弄されずにちゃんと楽しめるようになるだろう、と自分に期待してきたのだけれど、ちょっとはそうなった感じがしなくもないけれど、基本的にはまだ駄目のようで、己の未熟を痛感させられる。


[fin]