不幸な国の幸福論


今日もまた、卒業生の通夜であった。
彼と交わした言葉、ふざけあったときの情景、残された作品。
先日と同じ式場の、同じ祭壇の前で、彼を直接には知らないであろう、たくさんの彼の父の仕事関係の人たちに混じって手を合わせ、何とも言えないひと時を過ごす。


今日、加賀乙彦氏の「不幸な国の幸福論」を読み終えた。
不幸な国の幸福論 (集英社新書)


筆者については、精神科の医師でありながら、ずっしりとした長編小説や、ドストエフスキーについての論考を書く、重厚な作家という印象を持っていた。読んだ当時すでに発表から何年も経っていて定番ですらあった、「湿原」などの作品で圧倒されたのは、私が高校生の頃だから、結構な昔である。だから「新書」の新刊の棚でお名前を見かけたときには、ちょっとびっくりした。
80歳にして、未だ作品の執筆を少しずつ続けておられる近況を、この本で知ることになった。



「老齢の小説家」が書いている、ということで、読みはじめるにあたってある種の偏見があったのだけれど、統計やデータも引いて世の中の状況を客観的に見つめながら、この国の「不幸」がどこにあるかを分析し、精神科医としての経験と重ねた齢が裏付けた、説得力のある淡々とした「幸福論」が、美しい文章で綴られている。


この国の不幸は、

  • 「見られる自分」への過剰な意識と「悩みぬく力」の不足。
  • 根のないプラス思考の蔓延。
  • 秘密を許さず、自立心を根こそぎにする大人たちによって、幼児期から植えつけられる、日本人特有の「見透かされ不安」。

が個の背景にあり、それらが集合した結果、社会全体について、

  • 心配りを評価する文化が、高すぎる同化圧力と表裏一体であり、本来的に主体性を尊重しないものであること。
  • 景気悪化が自殺増に直結することは、(自明であるかのように語られているけれど)統計にそれが表れることは、他国の統計から見て、自明ではなく、社会保障還元率・家族・子供向け公的支出・医師数などセーフティネットの尋常ではない貧弱さと、異常に多い公共事業費がそのような「直結」を招いていること。
  • 物見高いだけで、次々と興味関心を新しいことに移し、目の前の困難・現実直面できない気質が、歴史的に見て一貫した日本人の基調になっていて、移ろいやすく、悪い方に傾きだすと、とことん事態を悪化させてしまうこと、

が指摘される。


その上で、「幸福は定義してはいけない」ということを説き、生きる「場」を増やすこと、こころの免疫力をつけることを提案する。
ゆとりがないときほど自分以外に目を向けて、誰かのためになることをしている自分を感じること、どんな極限状況にあっても、今できることを精一杯にして、美しいものに心動かすことがその人を救うことを、実例を挙げつつ、決して安っぽくなることなくしっとりと語られる。


希望の種は探せばどこにでもあるはず。社会がよくなるのを待ったり、誰かが希望を与えてくれるのを待つのでなく、自ら積極的に探しにかかるしかない、と筆者は説く。
その際に鍵となるのは、「希望」という言葉についた手垢や、世間一般のイメージから自由になること、希望とは何かについて認識を新たにすることではないか、として、「スープル(souple:仏)」という単語をキーワードに挙げる。
スープルに希望を探し、抱いた希望に対する姿勢もスープルに、そしてその成就についてもスープルに。その構えさえあれば、いつだってそこに希望はある。


この歳になったからこそ、こういう言葉を、そうだなと思えるのかもしれない。
年輪を重ねることがそのまま、静かに力強く希望を説くことばを育むことであるような、筆者のようなあり方が、そのままひとつの希望であるように、私には見えた。


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