生きる意味


生きる意味 (岩波新書)
上田紀行氏の「生きる意味」を読み終えた。


上田氏は、学生時代に夕刊の文化面の記事をきっかけに「覚醒のネットワーク」を読んで以来、紙面などで見かけると気になって目を通す。


本当に「生きる意味」という言葉にすがりたくなる思いの時には、こういう本を読んでも頭の中で上滑りしてしまう。本の「無力」を嘆く気持ちになったりするわけだが、本には罪がないことも多い。
今回、著者名を糸口にこの本を手に取ったが、こんなタイトルの本をふと手にする私は、社会との違和感や疲れと無縁でもない。
ぱらっと冒頭を読んで、続きがどうしても気になって、レジに持っていったのだった。
覚醒のネットワーク―こころを深層から癒す (講談社プラスアルファ文庫)


幼少の頃から人の目に縛られ、無自覚に他者の欲求を生きていることから来る「生きにくさ」を、程度の違いは様々ながら、多くの人が感じていること。合目的主義・効率主義が、「場」の意図を最優先して、不自然が堂々とまかり通っている様。そこから続々と生み出されている、あたりまえに「透明な存在」である現代の若者たち。


すべてを均質で交換可能なものに変えてゆく「遠近感のないグローバル経済システム」と、アイデンティティの根拠となる生きられた場を確保しようとする「ある種のエスニシティとでもいえるもの」が、不毛にぶつかり合う「世界」。
さらには、市場がたまたま「勝ち組」と判断したために報酬に与れた者を「努力し知恵のある者」だと、後から認定しているだけの社会が、「努力したものが報われる」社会として、正当化される。


ちょっと引いて眺めると見えてくる、経済成長依存症ともいえる、これまでの歩み。
その陰で徐々にエスカレートして、いまやそのあり方がさして疑われることもなくなった、数字に動機付けられ、生命力を犠牲にする恐れの高い、侵襲性の高い教育。


あいまいさのない、わかりやすさを求める傾向は、経済・教育のみならずあらゆる領域に及び、それらが各所でコミュニケーションの簡略化を押し進め、その力をあらゆる人々から間接的に奪ってきた。
数字が、豊かさをもたらす時代は確かにあった、しかしそれはもう過ぎた。数字が代表する「誰にも通用する意味」を求めた果てに、豊かさを裏付ける、という度合いをとうに過ぎて、それが「誰の意味にもならない」ところまで来た。


均質化しようとする様々な企みや働きかけに抗して、自分の中に濃淡のある世界を保つこと、自分として譲れない何かを、その「濃い」部分から育て、世界の何かと「愛」でつながること、が唯一「生きる」モチベーションを支えるものだ。
そんな内定成長を可能にする、しかし閉鎖的・排他的なムラ社会とも異なる新しい「中間社会」の創造と、個々の中に本当の(自らの内から発する、という意味での)「オリジナリティ」を育てること、を提言して、この書は幕を閉じる。


君たちはどう生きるか (岩波文庫)君たちの生きる社会 (ちくま文庫)
帯で、斉藤貴男が吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を引き合いに出していた。
「生きる意味」では、最後にコミュニティの可能性として、新しい取り組みをする「寺」を取り上げて、自らの専門である宗教文化人類学の領域へと読者を導いている部分があるが、自分が専門領域で磨いてきた見識をもとに、専門領域を離れて子どもたちに、今の世の中はどんな経緯でどんな風になっており、どんなところが難しく、どんな風に気をつけてがんばっていけばいいのか、と語りかける、力のある本だと感じる。
私は、伊藤光晴が経済学者としての研鑽を糧に子どもたちに語りかけた「君たちの生きる社会」という本のことをふと思い出した。


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