宇宙戦艦ヤマト

毎日jpから画像引用



明日から、「復活編」というのが上映されるのだそうだ。


コンビニエンスストアなんかにヤマトのポスターを見るようになって、またなにかレトロさを狙って、おまけのフィギュアや小さな模型のついたお菓子でも出たかな、くらいに思っていた。
実写でやる、とかいう話をネットのニュースで前に見かけていたので、ポスターの指しているのが「映画らしい」と気づいてからは、実写の露払いに過去の映像を集めたフィルムコンサートみたいなものでもやって、長い空白の年月を埋めるのだなと思っていたら、それも違っていて、「新作」なんだそうである。
まったく悪い冗談だ、と思った。


アルプスの少女ハイジ」と「宇宙戦艦ヤマト」は、放映開始時期が同じで、いわゆる表・裏の番組だった。
3歳児だった私は、親子でこのハイジを観ていた。ハイジの「ぬりえ」を買ってもらって、大喜びだったそうである。これが我が家で買った、はじめてのテレビ番組関連商品だった。
ヤマトは、この初放映では視聴率が取れず、放映期間を短縮されたが、コアなファンを獲得した。やがてダイジェストが映画になったが、これが数少ない上映館で公開前日から数百人の徹夜の大行列となり、午前6時開場、公開当日から上映館増になる、といった社会現象を伴った大ヒットとなり、アニメの商業的な位置づけを大きく変えるエポックを作った。
「男の子」になってきた幼い私は、ヤマトのメカメカしさと「宇宙」という舞台、そして科学の香りの虜になった。
しかし、ウルトラマン仮面ライダーが見られなかったのと同様に、戦いのシーンが怖くてだめで、いわゆる戦闘のシーンは見ないようにしながら、こっそりテレビにかじりつくということになった。


家は「子ども劇場」以外のアニメを観ることについては抑圧的だったので、いろいろな番組について「盗み見る」という感じでしか当時は観れていない。ヤマトについてもそれは同じだった。
祖父に近所の本屋で買ってもらった「テレビランド」の増刊号が、その好奇心と思うように観られないもどかしさを埋めてくれる数少ない源であった(軍人だった祖父は、ヤマトやガンダムの映画が、お正月やお盆前後にテレビで放映されるとき、「なんかこれは難しいなあ」と言いながらちびっこの私と一緒に見てくれたものだった)。
ちなみにこのテレビランド増刊号は、後にアニメ1作品について1冊刊行されるようになる「ロマンアルバム」シリーズの第1号となった1冊で、後にこのシリーズがアニメージュ創刊につながっていく。グラビアだけでなく、設定資料が載っていたり、放映スケジュールや各話ごとのシナリオ・絵コンテ・作画監督などの担当者入り放映リストがついていたりと、熱心なファンに向けた資料性の高いアニメ関連出版物の原型がすでに完成している。


その後のガンダムブームに先駆けて、こんなものを日がな眺めては、一生懸命似せて絵を描いていた記憶が、自分をアニメっ子の「走り」と規定させる。


SFは作られるたび、「失われた未来」をそこに残す。
「未来」であるのに作られて少し時間を経るとそこにノスタルジーを伴ってしまうような、それが作られた時代の刻印がそこにくっきりと押される。だから、同じ作品で長い期間「未来」を描き続けることは難しい。
しかし、その「刻印」も含めて、その作品は観るものに印象を残すのであって、そこで描かれるディティールに現れるひとつひとつの予言が正確であったかどうかがその作品の評価を決めているわけではない。


ヤマトは、「2」くらいまでは何とか同時代性を伴った「未来」を描く作品として、(少なくとも子どもだった私はそういうものとして)楽しんだ。そして子どもだった私だけでなく、ほかの多くの人の関心を劇的に呼び込むだけの力がある作品でもあった。
それ以降は、過去の「大ヒット作品」をたくさんの同好の者たちで名残を惜しみ続ける作品になった、という気がしている。私は、「ファン」だったから、それらも「そういうもの」として十分楽しんだけれど、客観的には「そういうもの」でしかないだろうと、すでに「ヤマトよ永遠に」で何となく思っていた。その後の「完結編」の時は(小学校6年生だったけれど)、もう明らかに「祭りの終わり」として記念に観にいく、という気分だった。


作品は世の中の変化に伴ってどんどん「同時代性を伴った未来」を盛り込むことの難しい器となっていく。今となってはヤマトは完全にそういう器である。ノスタルジーとして、過去の作品をそのまま楽しむことは十分に出来るが、新しく幻想を共有する観客をつくろうとすれば醜悪なことにしかならないであろう。
かつての作品の熱心なファンだった私も、今回の騒ぎにもならない騒ぎは、「別物」としておそらく黙過することになる。
数少ない幸いがあるとすれば、これがきっかけで旧作の映像や音楽に関するソフトが廉価になって新発売されたり、過去の商品の在庫が補強されて手に入りやすくなったことだ。


基本的に「盗み見」だった昔の少年は、この「幸い」に記憶を掻き立てられて、ついポチッとやってしまい、商売にまんまと乗せられてしまった。
そちらも大いに狙いのひとつなのだろうなと、乗せられてから思う。


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