アウトブリード


アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
保坂和志氏の「アウトブリード」を読み終えた。


「人間の感覚はほかの動物と同じように、じぶんが個体として環境に適応していく必要性として発達してきたものであって、世界の実体を知るために発達してきたわけではない。同様に、理性も大部分は環境に適応する能力の一環として発達してきた。だから素朴文学趣味の好む〈等身大の私〉などいくら駆使してみても、環境適応性の次元でしか世界を把握することはできない。本当に世界の実体を知りたいと思うのなら、〈私〉の次元をいったん切り捨てて、世界の法則や掟を知ることに喜びを見いだしなさい」という記述。


古典物理学は日常の感覚をあまりに見事に説明できてしまうために、多くの人は古典物理学で世界がすべて説明できるとカン違いしてしまった。精神、霊魂、生命といったものでさえも、同じ言葉で説明できると思い、説明できないものは「そんなものは、想像の世界にしかないんだ」と断言するようになってしまった。しかし、古典物理学で説明のつかないものは世界にいくらでもある。科学は科学の言葉で説明できる事象を説明しているに過ぎないのだ。」というハイゼンベルグのことばの紹介。


「「事実として確かめた」という証拠立ての思考法を僕は科学的思考と思わない。「自分の目で見る」こと、「自分の耳で聞く」こと、それら生の感覚に基づいたものは”身のまわりの科学”というレベルのものでしかない。つまり、生の感覚、生の思考からの切断がない。そこから切れて、自分の目や耳では確かめることができないことであっても、そう考える方がはるかにつじつまが合い見通しがよくなること、場合によってはそうであるとしか考えざるをえないこと、そういう抽象に身をゆだねる事態を科学的思考だと僕は定義しようとしている。」


「「世界」の中心に「人間」がいて、そういう人間であるところの私の悩みや私と社会の相克を書くことだけが文学なのではない。科学と哲学は、人間と世界の配置を劇的に変えた。科学や哲学との連関を失ったら文学が書かれ読まれる意味はないと僕は思う。」


書評や、自分の作品の解説、書簡、同人誌の原稿など、さまざまな書かれ方をした文章が集められた、不思議な本であるが、寄せ集められた、という印象よりも、著者自身が自らの変わり目を自覚しながら進んでいる現場に立ち会って、ともに進んでいくような、ひとつの流れが感じられる。
それがただ一作家の心象を拾った、エッセイやドキュメンタリーというのでなく、普遍的な訴えかけを読んでいるように思えてしまうところもまた、不思議である。


書かれた時期は、私が働き始める少し前、長いモラトリアムの終わりごろにあたる。
季刊誌「ビオス」、「ユリイカ」、「現代思想」、ハイゼンベルグ「現代物理学の思想」、ジョン・グリビン「シュレーディンガーの猫」、ヴァージニア・ウルフ「燈台へ」、田中小実昌「バンブダンプ」、ドゥルーズ/ガタリ・・・。
書評されたり、原稿が掲載された書物は、読めていないものが多いが、今も手許にあったり、当時手にしたものが多い。


高校時代までに、私なりに考えたことや、周囲に対して感じていた違和感を掬ってくれるものが氏の書くものにはあって(随分と遅れて読むのんびりとした読者ではあるが)気になってここ10年くらい少しずつ追いかけて読んでいる。氏の作品に出会ったのは、その違和感に直面しはじめた時期よりは後になり、他の書物でそれをいろいろに埋め合わせてみてからであったけれど、そのはじめから出会っていたら、やっぱり「他の書物」たちと同じようにそれを埋めてくれたり、違う一歩の踏み出し方を促してくれたりしてくれていたのであろうと思う。


そういう生活をしていたなあ、こういうことを考えていたなあ、そちらに注意を向けられなくなっているけれど、変わったわけではなくて、ただ積み残して塩漬けにしてあるだけで、引っかかったときにはいつでもまた読んだり考えたりしたらいいんだな、とかだらだらと思いながら読んだ。


[fin]