昭和が明るかった頃


昭和が明るかった頃 (文春文庫)
相方の実家から、早めに空港まで送ってもらい、朝一番の飛行機で無事に新潟に入った。
ただの偶然であるが、著者にゆかりのある新潟に向かう機内で、関川夏央氏の「昭和が明るかった頃」を読み終えた。


「戦後」を経て到来した高度経済成長前期、東京オリンピックによる達成と虚脱が訪れる前に、日本全体が「明るさ」を共有した稀有な一時期が「あった」、ということをとどめ、伝える本である。


事実や出来事と異なり、その時代の風潮や空気を、それを経験していない者に伝えることはとても難しい。
事実や出来事を「現在」の感覚でながめて、その時代を「わかった」気になることは、その時代を生きた人とそうでない人を隔ててしまうことさえある。


この本では、この特異な一時期の時代性が、はじめての「大衆娯楽」となった「映画」なかでも日活のプログラムピクチャー群の栄枯盛衰に深く刻まれていることに注目し、中でも吉永小百合石原裕次郎のふたりのスターの登場と盛衰を軸に「日本の近現代史」を記述している。


断片的にいくつかを観たときに、1950年代のこれらの映画に感じた違和感の意味や、現在、私も知る俳優や監督たちが何故にああであるのか、そうであったのか、について新しく知ることが、まず単純に多かった。
それらを知ったことで、「その人」を見るたびに背後にある「歴史」が連想されるようになり、これまでと見え方が変わってきた。
人間というものがどういうふうに年齢を重ねるものであるか、知らず知らずどのくらい時代の制約を受けるものか、ということに思いを巡らせることが増えた。


題材が「今」につながっていることで、「風潮や空気」というものがいかに移ろいやすく、移ろってしまえばわからなくなってしまうものであることを、これまでの明治もの・大正もの以上に強く感じさせられることになった。


氏の作品は、「ソウルの練習問題」や「海峡を越えたホームラン」といったルポや様々なエッセイにはじまり、明治もの、大正もの、と楽しんできたが、ここのところ買ってもなかなか読めないでいた。この本にしてもすでに7年前の仕事である。
氏の姿は表向き出てこないのだけれど、氏自身が幼いなりにすごし経験してきた時代と格闘している、ということからか、初期の著作を連想する懐かしさも少し感じた。


幾度も著者が断っている通り、これは「映画の本」ではないのだけれど、信頼できる視点のひとつから、ひと時代の映画の作品群について鳥瞰図を得ることにもなった。いくつかの気にかかる作品については、観てみたく思う。


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