難解な本を読む技術


高田明典氏の、「難解な本を読む技術」を読んだ。
難解な本を読む技術 (光文社新書)


著者の考究の結晶である本を、曖昧なところを残さず今の自分の理解の及ぶ限界まできちんと我が物にし、自らの脳に「取り込む」方法として、本の選び方、ノートの作り方など、「読む技術」が解説されている。
「難解」と定評のあるラカンジジェクといった著者の本を著者別に実際に挙げて、具体的にその方法が披瀝される章が用意されていたり、氏自身や、自分の学生のノートを一部そのまま載せるなど、方法を読者に提供しようという高田氏の熱意は、技術書でありながら心動かされた。


「読書ノート」を取って読む、など、本をしっかり理解して読み進める方法については、断片的に知らなかったわけではないけれど、じゃあやってみるか、とはなかなかならなかった。
それは、具体的な方法がよくわかっていなかったから、ということもあるが、それよりも「時間がかかる」ことへの恐れが、自分の中に大きくあったからだ、ということに今回あらためて気づいた。


私は、食べるのも遅いが、読むのが遅い。いろいろなことに時間のかかる人間である。
知識を吸収し、考えを深める上で、「本が早く、たくさん読めない」ことは、致命的なことなのではないか。
思い返してみると、そんな恐れを中学生の頃から漠然と抱えて続けている。


実はこの本と一緒に、近くの棚にあった「多読術」という松岡正剛氏の本も買っていたりして、「そういう」タイトルの本を手にするくらいには気がかりになっていた自分に、あまり気がついてなかった、ということに苦笑する。
多読術 (ちくまプリマー新書)
(これもちらちらと読んでいるのだが、こちらはタイトルの通り「分量」という面では対照的なことが書かれている)。


読もうとする本が「難解で骨のある本」である、という限定はあるものの、本当に必要な本が自分の頭の中に再構築される、ということは、1ヶ月に1冊でも、それは大変なことだ、「本とは、きちんと読むには時間がかかるものだ」と、はじめにしっかりと説明される。
「時間はかかるもの」という前提にほっとさせられて、その後、読むのに熱が入った。


時間をかけなければならないのは、なによりも「選書」の段階である、ということ。
目次と背表紙がいかに重要であるか、ということ
あいまいなまま、あるいは単語に対して自己流に解釈したまま読み進むことが、危険であり、無意味でもあること。
脚注・訳注が、いかに理解の手がかりとなるものであるか。
入門書・概説書が有効な場合もあるが、「選書」の腕を磨き、必要な本そのものを探り出して読むことこそ重要であること。
閉じた本−外部参照を要する本・登山型の本−ハイキング型の本、という2軸4区分のどこに属するかによって、その読み方が大きく異なること。
・・・文献を元に研究を進める、最も具体の部分についての解説には、そういうことだったのか、と今さらながらに納得させられることばかりだった。


これまで、いろいろな本に手はつけてきたけれど、きちんと「本を読む」ということが、いかにできていなかったか、思い知らされた気がする。
本当に私が知りたいことは何か、ということに対しても、真摯に考えてきてはいなかった、ということに愕然となった。


私は「教養部」がある時代の大学卒業生であるが、こういうことをもしその時期に知っていたら、(良くも悪くも)人生が変わっていたかもしれない。
何をやっていたのだろうか、という思いも、少ししなくはない。


幸い、「本を読む」ことは、これからでも十分にできることである。
ここで知った、新しい本との取り組み方を試してみたくて、うずうずする。これからあらためて、本との新しい付き合い方がはじまるような気がしている。


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