帰ってきた桃尻娘


シリーズ第3作。
脇を固めるキャラクターによる「仁義なき−」を、それはそれで上手いなあ、なるほどねえ、と思ったものの、「やっぱり榊原玲奈にこそ興味があるんだよね」という読者のフラストレーションがあって、この第3作は全編、榊原玲奈がメイン。
「よっ!待ってました!」という感じで、勢いよく読んだ。


小説には、作為の自由が十分にあるようで、登場人物の行動や心理や話法には、小説らしくするための「文法」のようなものが、自ずと書き手を陰で縛っている。
これは何も小説に限ることではなくて、文章を書けば、その背後には常にそれを「らしく」するための作用があって、陰に陽に書き手を縛っている。
創作に限らず、そのことには自覚的になって、積極的に振りほどかなければ、基本的には整った「型にはまって」いるだけの、どうでもいい文章に「堕ちる」。定型・定番の書類を作ることだけが「文を書くこと」である人にとっては、「落ち着く」とも言う。
「型」に嵌ってしまうことを、それはそれでよし、としたままに書いている、この私の文章群も、たぶん相当に「堕ちて」いる、と思う。


現実は小説より奇なり、なんていうと、珍現象やセレンディピティみたいなことばかりを言うように思いがちだけれど、そうではなくて、人の考えたり、したり、感じたりする事は、瞬間瞬間に切り取ってみると実は結構「支離滅裂」といえるようなある種の迷走をしていて、ちょっとまとまったスパン(それは数分の時もあるし、数日の時もあるし、長ければ数年のことだってある)で帳尻や整合性を、半ば無意識の内に一生懸命取って、なんとなく一貫した「考え」や「行動」や「心理」にして、澄ましている。
この帳尻や整合性を取る作業について書くのが文章じゃないか、という向きもあろうが、そこに「様式」というのが暗黙の内に厳然と立ちはだかっていて、「葛藤」と呼べる形式にまとめられるものだけしか掬い上げられない、あるいはその形式に当てはまるように「修正」されてしか表現されないようになっている。
この「様式」に全面的に沿っていくと「つまらなく」なり、うまく抗えば「あっ」と思わせるものになる。しかし様式に対する「チャレンジ」をどんどん進めていくと、だんだん「様」にならなくなってゆく。


(うねりやためのない武術的な身体運用が、うねりやためのある動きより、段違いに速度も威力もあるのに、映像に忠実に起こすと、勢いよくも強そうにもちっとも描けず、絵として様にならないないのと強い類似を感じる。)


あとづけの整理されたフィルターなしに自分を振り返ったことがあって、支離滅裂と紙一重な瞬間瞬間の現実に思い当たる節があると、この作品はものすごくリアルである。
なんだかあまり「経験」がなくて、でも嫌なことははっきりしていて、結果的に口ばっかりで臆病なだけなんじゃないか、ということにしかなっていないけれど、それは勇気とかそういう問題じゃない!という苛立ち。
後で気づく自分の中の片思い、とか、ある瞬間に冷めたり燃えたり、とか、感情と考えがお互いに裏切りあったり、とか、感情が考えから導き出されたり、とか、「踏み出してみた」ときの傍目には理解してもらえない(しかし実は必然の)滑稽なあれこれ…。


潜在意識に押し込めてあって、整理された別の形で「記憶」として納めてあったけど、実はこんなだったじゃないか、と掘り起こす力を帯びていて、いろいろなことをまざまざと「思い出さされる」。
ああ、情けなさや怒りがくるくる入れ替わって、「死んだ」ようにぐだぐだするしかない落ち込みや気だるさに、しょっちゅう捉えられていたな。
あれは今の疲れや悩みとは違うものだった、危うくその違いを忘れてしまうところだった…、と描写を追いながら思った。


[fin]