その後の仁義なき桃尻娘


その後の仁義なき桃尻娘 (講談社文庫)

その後の仁義なき桃尻娘 (講談社文庫)

キャラクターごとに1篇ずつ持ちまわる続編だが、リアルにキャラクターに寄り添った筆致になっているために、受け持ったキャラクター次第で、篇によってボキャブラリーの不足や考えの貧困さ、語りの稚拙さにまともに付き合わされる仕組みになっている。
そんなこんなで、前半はだらだら読んでいたのだけれど、終盤、薫くんの受け持つところから、一気に濃厚な青春小説になって、しっかりこちらが振り回されてしまった。
後付を見たら、ここは書き下ろし、とのこと。やはり。


瓜売小僧こと磯村薫くんは、「セックス」を知っている「こども」でしかない、という自己規定と、それでも今の間はいいじゃないか、というひとまずの結論にたどり着く。
反発したり馬鹿にしたりするときに、その反対側に「セックスを乗りこなす大人」というものを、漠然と意識するのが当たり前だった「状況」を表しているのだろうか。
人が、人とただつるむのだけではなく、「ちゃんと」親しくなるということが身の回りのどこにもない、と感じる飢餓感と、少し前にはそれがあったのではないか、という疑いから導き出された結論に見える。
そういう風に読めてしまうのは、そういう「葛藤」の持ち方を自分がしているから、である。しかしこれは、「他人と確認しあうようなものではない極めて個人的なこと」で、共有されている手応えはなかったし、これからもそうであろう、という気がしている。
この作品が出た、30年前の当時は今と違っていたのか、あるいは、問いの立て方がおかしいのか、そのあたりはよくわからない。


昔読んだ時は、なんだかよくわからないままに面白がることもできず、ちょっと気持ち悪くさえ思ってしまった作品だった。今になって何となく食いつけたように思えたのは、時代の変化というよりも、私の年齢が執筆当時の著者と近くなったことが大きいのだろう。


80年代のにぎやかな空虚を「空虚」と把握して描かれていく様を楽しく読み進めながら、合間に「現在」の周囲を眺めると、30年をかけて、せっせと「空虚と自覚することを忘れさせるように工夫された空虚なもの」でそれを埋めてきたのだな、という感想をつい抱く。


[fin]