研究授業


今年は、職場に初任者が7人もいた。
研修の一環で、年度末までに研究授業をしてもらうのだが、今週がその期間に当たり、最終日の今日、反省会があった。
その中の一人について、指導教官ということになっていた私は、指導案の添削や授業の方向性検討というかたちで、先週から今週にかけてだけ「指導教官」らしいことをした。


本来は1年間、授業における指導方法に限らず、様々なことについてサポートしていかなければならないのだが、ここまで授業についてすら、ろくに「指導」することができなかった。
年度当初に概要と方針だけは説明したが、初任の彼は、ここまで私の授業を見に来たことがない。私も、彼の授業しているところを見るのは、今回の研究授業が初めてである。
ひどい「指導教官」があったものだ。


前の職場でも「指導教官」をしたことがあったが、その時はもっと「指導教官」たりえるだけのことができていたと思う。
ここでは、それと同じことをするのは難しい。


生指案件、進路開拓に誰もが時間を取られ、どんな業務においても次から次へと書類を作ることが科され、さらにそこに機器の保守や管理に関する雑用が覆いかぶさってくる。隙間の時間と(当然のことながら手当など一切ない)夜遅くまでの残業で、ようやく膨大な量の自分の担当授業の準備を間に合わせる。
会議の発言を除けば、クラスの相担以外の職員と、事務的な情報のやり取り以上の会話をすることは、あまりない。
様々に会議は多いが、一番上に乗っかっている職員会議や運営会議が、ただ上から下に命令が下るだけの実質連絡会であるため、身の回りの調整にとどまって、大局的な部分は議論したことが実らない、ということが繰り返されている。
その「上位下達」される内容には感心しないものが多いから、その内容に満足している人はともかく、働き者が多いのにどことなく無力感が支配する。


そういうところでどう振舞うことが、自分のしたい授業や指導を担保することにつながるか、という知恵はそこそこある。そのお陰で、体力的にも精神的にも健康とはいえないものの、鬱にもならずやってこれているのだけれど、「新任者の指導」というのはそういう振る舞いの範疇ではない。
そういう(ちょっとけれんな)振る舞いを排したところから、一緒にやっていくのが基本である。
2週間限定でその辺りをがんばってみたが、それは普段「振る舞いの知恵」でやり過ごしてきた部分に、自覚的に向き合う、ということだったりした。


新任は、職場の状況を写す鏡のようなところがある。
そこそこきちんと良心的な修練を積んでからならば、ひどいところに来ても、表向きはそれに馴染んでいるように見せかけて、押さえるところをきっちり押さえている、なんてことになる。
しかし、そういうものがない人は、状況を真に受けて、そういうものだと思い、平気で「本質抜き」で突き進む。
まあ、私の担当した初任者の授業はまさしくそれだった。


指導案をほぼ完全に書き直し、指導の不足を詫びながらも、長々と叱咤して臨んだ研究授業は、形の上ではそれまでの彼の授業と大きく変わることなく終わった。
しかし、少しは「まずい」と思ってもらえたかもしれない。
私自身も反省するところはたくさんある。


随分と苦い2週間であった。


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