後輩の決断


2日前に後輩からメールがあった。
クラブ員全員に宛てたもので、つとめて事務的に、情緒を排した簡潔な文章であった。


会社を辞めて、銃砲店に勤めることにした、という。
その銃砲店が長らくスタッフを募集していることは、この世界の人は広く知るところだったが、半年近く決まらずにいた。
どこも不況である。彼のいた会社もその影響について例外ではないが、業績下降は倒産を心配するようなレベルではなく、普通ならばそこに勤め続けるかどうかを決断せねばならない状況ではないようなのだが、国際大会への出場などで、勤務形態に特別な扱いをしてもらえるかどうか、という次元では、大きな影響があるだろう。
もとより、そういう前提で取ってもらった企業でないところで、そういう待遇を(一時的にせよ)獲得していたことが大変なことだと思うが、そうでない待遇の時に「両立」が難しい仕事であれば、いろいろと考えることはあるだろうと、想像する。
就職する時点でも、そういう「両立」について考えたのではないかと思うのだが、その当事の予想より厳しかったということか。


収入を得ながら、スポーツで頂点を目指す、というのは大変難しい。
殊に「射撃」が収入に結びつく生活形態は限られており、銃砲店勤務、というのはその数少ないスタイルのひとつであるばかりか、他の選択肢よりも自らの射撃スタイルについて自由度が担保される、願ってもない仕事といえる。
だが、結果的に彼が手を挙げるまで半年の空白があった。
彼がその席を占めたことや、半年空席だったことに、いろいろなことを考えさせられた。


やはり自分のことを振り返る。
少し他の人よりゆっくりと就職したために(私の周囲には私よりもっとゆっくりな人がごろごろいたが)、「働く」ということには周囲の同世代の動きと距離を置いて、冷めた感じで考えていたと思う。


もっとも、「ゆっくり」だったことよりも、私の世代は、バブルが大学卒業の目前で崩壊したことが仕事観に影響している。
あたかも「人を評価して必要な人材を選んでいる」という顔をしながら、好況時の大卒求人なんてものは適当に人集めをしていただけだったこと。そのように、ただ状況に合わせて体裁だけ整えたものは、状況が変われば臆面もなく一斉に掌を返す、ということを(若者にとっては、前例なくいきなり)間近に見た。
世代単位で、世の中から受け入れを拒否された、という感覚を味わわざるを得なかったことによる「冷めた」感覚を、どこかで共有している。


しかし、そういう時代状況をも思い切って差し引けば、バブル崩壊前10数年以来の「最近の感覚」の中で育ったものに共通する、仕事観の性向はあるように思う。
どんな仕事をするかを「決める」ということには、何か天命のようなものが感じられて、とか使命感に照らし合わせて、とか、それを一生続けたいというやむにやまれぬ衝動によって、という「何か」が、自分の中に感じられなくてはならない、と思いすぎるきらいが、たぶんある。
その反動から、「そういう風にはいかない」となったとたんに、周囲の「就活」スタイルと合わせることにエネルギーを注いで、大学受験と同じような感覚で、企業の偏差値でも計るように、会社を業種で分類し、その中で規模や業績で分類・比較して自分を当てはめる作業に明け暮れる。


そのような渦の中にいた時に、流れに乗らずにただじっと立ちどまったことが、結果的に「流れに抗う」ような格好になっていることに、不安を感じた。
仕事によって生じる生活がどういうものでありたいたいか、とか、その仕事によって、意に反してしたり言ったりしなくてはならなくなることはどんなものになるか、といったことを、わからないなりに懸命に考えていたような気がする。
私の場合、大学や大学院での生活からすれば、何らかの形で研究に携わる仕事をするもの、と思われていたが、結果的にはそれを積極的に辞めた。


一筋、というのが苦手だった、ということなのであろうな、とこのごろ思う。


逃げ道を確保している、ともとれるが、忙しい忙しいと言いながら2軸・3軸と抱えて、アクロバティックに捌いてゆくことに満足を感じる性分なのだ。
世界の「多様性」のためには、各個が突き抜けた存在である方がいい、という考えはわかる。一度きりの人生で「突き抜けること」に重きを置く潔さは尊敬するが、一度きりの人生なら、自分の中でその多様性を楽しみたい、と私は思ってしまう。
2軸、3軸を操ると、「一筋」の格好良さはないけれど、隘路隘路でやりくりして打開する方法を見つけやすく、行き詰らずに進むことができる、ということもある。
意に反したことをせざるを得なくなったり言わなければならなくなりそうになる前に、状況に折り合いをつけて回避できたりもする。


研究は、プライベートも仕事もなく、常にどこかで追究を競い続ける仕事である(と私は思っている)。面白いけれど、その一筋さ加減を愛していなければ生き残ってゆけない。
それができる環境は、変なもので出来上がっていたりして、そこから一歩でも離れてはその営みができないようなものだったりもする。
射撃は好きだが、それだけを一筋にするにはためらいがあった。片手間にやるには奥が深すぎるが、かといって自分の「全て」を委ねるまでの豊穣さはないのではないか、という感じが今も抜けない。


後輩はそこに豊穣さを認められたのだろう。私には見えないものが見えているのであろう。
その決断は、見事だと思う。私にはできない。
何年かして、射撃を十分にやりながらしっかり食っていくならこの方法しかないじゃないか、と、ごく当たり前に思われるようになっているといい、と思う。
あの時、半年もだれもこの仕事に飛びつかなかったらしいけど、忙しくて撃てないなんて言っていながら見逃していたおじさんたちは度胸なしの馬鹿だったんじゃないの、と私たちが若い子達に言われるようになればいい、と思う。
そんな風に簡単には上手くいくと思えないくらいのチャレンジだったんだよ、と、しっかり言い訳して、見えないところで後輩のことを持ち上げてやるよ。


頑張れ。


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