桃尻娘


橋本治内田樹」の中に、イラストレイター出身ならではの「本作り」に対する意識と、分節化された出版界とが噛みあわない、という話があって、桃尻娘シリーズのエピソードが書かれていた。
おかまの源ちゃんの愛しの先輩、滝上圭介を主役にした回は、状況や心情に対応するボキャブラリーのない若い男を端的に表す、無言のセリフ「・・・」がやたら多いのだが、その長さはページレイアウト上、どのくらいの面積になるか、とか、見開きで眺めた時の字組みの濃淡がどうなるか、をすごく考えたりする、とか、単行本から文庫本になると字組が変わって、そういうのが変わってくるから書き直した、とかいう話だった。


久しぶりに、このデビュー作のシリーズのことを思い出して、そんなものかな、と読み直したくなって手に取った。
(気になったものを買って手許に置いてあることは、嵩張ることではあるけれど、こういうときにすっと手に取れるところが唯一くらいの大きなメリットである。)

桃尻娘 (講談社文庫 は 5-1)

桃尻娘 (講談社文庫 は 5-1)

この本を手にした当事、自意識は過剰気味でも、うぶで世間知らずの若者だった私は、ホモ・レズビアン包茎…といった単語にびっくりする一方、榊原玲奈のポジションに身を置いて読みすすめたいのに、どう見ても自分が、作中でこき下ろされている冴えない男の子たち程度でしかないことがありありとわかって、作品の「痛快さ」を上手く味わえないままに終わってしまった。
会話の中で飛び出してくる「スペオペ」・「ジルベール」・「美少年」・「薔薇」といった言葉の意味するところやニュアンスが、当事の私はあんまりわかっていなくて、外来語を見るようだった、ということもある。


今回読み返してみて、とても面白かった。ちょっと切なく思うくらいに、入り込んで楽しんだ。
その時代に面白がれて、わかっていたら、感覚やセンスがイケてた、ということなのだろうけれど、今頃この歳でわかって、共感することに大して意味はない。
しかし、この歳になるとわからなくなる、ということもあるし、わかっていたけれどこの歳になると馬鹿馬鹿しくなる、ということもある。
なんだかわからないなあ、わからないのは恥ずかしいなあ、という記憶が、作中に出てきたような事について気をつけることにつながり、その積み重ねと、冴えない自らの青年時代を年季のせいでちょっと突き放して見る勇気ができたこととで、何となく背中が見えるようになった、といったところなのだろう。


日常、くだらないことに見栄を賭ける、組織や人のとばっちりを食ったり、聞きたくもないことに耳を傾けさせられてうんざりしたりすることの、あまりに多いことに、ちょっと自分は変なんじゃなかろうかと思いかけていたけれど、やっぱりそんなことないんだわ、と解き放ってもらう心地がした。


20年強を経て、こういう風になっちゃいけないんだわっ、と言われていたようには、なってないみたいでよかったわっ、と答え合わせをする感じもしつつ、威勢のよさが自分の中に少し戻ってくるようだった。


現在崩壊してしまって、やや安直に復活が期待される「共同体」は、高校生にとっては深刻な、ほほえましい「うっとおしさ」で毒抜きされてできあがったものだ、という単純なことが、具体的なイメージとしてちょっと忘れられつつあるかしら、と30年近く前の風景の描写に気づかされる。


滝上先輩の章はまだもう少し先だし、もう少し5部作の続きも読んでみようか、と思う。


[fin]