紅白を横目に暮れる1年


昨晩から、コーチ講習のレポート課題に取り掛かったが、予想通り相当に手間取る。
最小限の解答で乗り切ろうと思っているのだが、それでも数日はかかりそうである。家にいる時間がとても少ない上に、一人で机に向かうことがとても難しくなってしまった我が家では、これは至難の課題である。


今日は、朝から洗濯物を取り入れたり干したり畳んだりを引き受けて、借りてきたCDをiTunesに放り込む。
早々に片付けて、昼食が終わったら実家に移動の予定だったが、娘を相手しながら、ごみを片付けたり、荷物をまとめたりするのに手間取って、すっかり夕方になってしまった。


娘の時間に合わせて、早めに夕食を済ませて風呂に入れた後は、相方と交互に寝かしつけつつ、両親が観ている紅白のついたテレビを、少し遠目に眺めながら、再びレポート課題にこそこそと取り組んだ。


横目にちらちらと観ていたのだが、番組の前半は観ているのが気恥ずかしくなるような場面が大変多い。
「大衆芸能」において「国民的」という漠然とした冠をかぶせる、という使命から、受け手となる対象に焦点を合わせることの難しさはわかるが、例えば美川健一が毎年、衰えゆく声に枯淡の趣もなく「さそり座の女」を歌い続け、そこにIKKOやはるな愛が応援と称してにぎやかに騒ぎまくる演出は、どのような人たちが喜ぶと想定しているのか、よくわからない。
全般に、ベテランの出演者ほど、視聴者や観客をそっちのけにして、舞台の上だけで内輪の盛り上がりをみせる傾向が強いようなのが、大変見苦しい。
演出のくささ、というものとは次元の違う、嫌な部分が幾度も見え隠れするように感じた。
これは、「NHK」や「紅白」の問題ではなく、少なくとも「テレビ」や「芸能界」のある状況を反映している見苦しさだろうし、もっと敷衍して「世の中」のある状況も反映しているに違いないと思う。
ただ、午後10時過ぎからの、アンジェラ・アキ森山直太朗と続いた部分は、ぐっと来て、思わず見入ってしまった。やたらと司会者が連呼していた「歌ヂカラ」を、番組から感じられた数少ない部分だった気がする。


娘は少し興奮したのか、11時過ぎまで幾度となく目を覚ましてはむずがり、年の暮れを実感する間はあまりないままに年は明けようとしている。


刻々と次を意識することは出来ても、1年というまとまった期間を振り返り、次の「年」への思いを新たにすることは、なかなかできない。
そういう習慣を、本当の意味で身につけないままにこの歳になってしまった、とも言える。


2008年は、ひときわ慌しい年であった。
娘の誕生があり、日々の色は大きく変わった。小さな嬉しいことがあちらこちらに見つけられるようになった。
他にも、良きにつけ悪しきにつけ、先になって、振り返ることになるであろう出来事が幾つかあったことは確かである。
反省はある。来年以降に向けて不安もある。しかしいまここに書き記すには模糊としている。


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