米寿の祝い


叔父が発起人になって、祖父の米寿を祝う会が開かれた。


母方の叔父叔母従兄妹だけで集合するのは久しぶりだった。
昔は、大阪の祖父の家に、年始によく集まったものだった。
大人が集まる場面、としてはそれが私にとっての原風景になっている。


会に先立って祖父が話をした。叔父から15分くらい、と言われて、時計を前にきっちり15分で起承転結をつけるあたりは、相変わらずさすがである。
生い立ちを軸に、祖父が伝えたいと思っている考えを語る。


−6歳の時、学校の沼で怪我をした話。
担任は村長の息子である祖父の怪我に、あわてて背に負って家までつれて帰ってきた。そのことを夜に帰宅して聞いた父が、親の立場のために子供を特別扱いしてもらっては困る、明日学校に話をしに行かねばならんな、と言うのを聞いて、偉い親父だ、と思った記憶がある。
人間の6歳を世間では子ども扱いするが、それは間違いで、その時分にはもう一人前の分別は備わっていることが、この経験と記憶でよくわかる。
私は教員になったが、子供に接するにあたっては、そういう面ではきちんと一人前の人間として接し、尊重をすることが大切なことだと思う。


−稀な戦争体験をしてきた話。
訓練後なぜか部隊配属者の中に名前がなく、過剰員として扱われ、同時期に徴用された仲間が全て外地へ赴いた後も大阪に留まり、軍事機密を扱う作戦計画室で3年半働くことになったこと。復員計画が全て完了するまで続いた、コンピューターのない時分の、人間の脳だけが頼りの過酷な頭脳労働のこと。必要に迫られれば、相当に人間の頭は記憶も計算もできるが、甘やかせばそれなりのことしか出来ない。その仕事を離れてから、周りを見てそのことがよくわかる。


−縁があって、写真家の小島氏に写真を見てもらうことになったが、そこで第一声に発せられた「これは何を撮ったのですか」という問いの衝撃から、プロに習うことの重要さを知った話。
祖父はその後、写真だけでなく、書・俳句、さらにはピアノまでプロに習い、それぞれに「身につける」以上にものにしてきた。中でも俳誌の主宰としては、半世紀に及び、創作の指導者、あるいは芸術祭における選者などとして今なお活躍している。


これまでずっと同じ関西に住み、初孫として長く近くにいた私は、それぞれにどこかで聞いたことのあるエピソードだったが、ひとつの流れの中でまとめて聞くと、また違った印象だった。
祖父は今回の会のお礼にと、8つの家族それぞれに異なる句を色紙にしたためていて、寸志をつけて贈ってくれた。


私は、会の終わりごろに近況を話すことを求められて、自分の仕事や射撃のことばかり話してしまった。本当は、祖父こそが私が最も影響を受けた大人の一人であることを、少ししんみりと話したかった。そういうのは、祖父は好まないような気がするけれど。
私に続いてマイクを持たされた叔母が、そのような内容を心温まる素敵な語り口で話したのが、とても印象的だった。
あたりまえだけれど、ちょっと敵わない。


その日の内に東京で人と会う約束があったので、早めに出ると言っていたのだが、立ち去りがたく、結果的に最後までいた。
そんな会はしなくていい、と初めは言っていたようだけれど、祖父は実に嬉しそうであった。
卒寿の会で再会しましょう、と締めくくられた。

2年後、是非そうなりますように。


[fin]