市井のいやなことば


オリンピックもこの週末まで。
残すところあとわずかである。


−オリンピックというのは、夢の舞台なのだけれど、オリンピックの記憶というのはほとんどの選手にとって、辛いことばかりなんですよね。
幸いにして若くして参加できた選手には、競技が終わった後、周りをゆっくり見渡して、最高の競技場で大観衆の下で競技できたことをかみしめてから会場を後にしてほしい。
僕の場合、一番覚えていて、その後も一番力になったのは、初めてのオリンピックで最後のレースを走り終わった後、「終わってしまったなあ」と見上げたスタジアムの眺めだったから−


為末選手が、レース直後に、共に走った後輩の選手たちとともに受けたインタビューで語っていたコメントが、とても印象的だった。


印象的なシーンには、テレビで出会うことが多いが、オリンピックについてのニュースは、多くをネットから得ている。
便利な一方、各所に設けられているインタラクティブなニュースページでの「市井の人々」の書き込みが、大抵ひどくて閉口する。
できるだけ目に入れないようにしているのだが、それでもスクロールの合間に視界の片隅に飛び込んできて、浮薄で傲慢な人間で世の中は満ち溢れていることに、今更ながら暗い気分になる。
NHKの中継で紹介される「応援FAX」は、それらと対照をなす、もう一方の「極」であるかに見えるが、「選別」を経ているだけで、罵詈雑言と紙一重の「熱狂」を孕み、同様にある種の暗澹たる気分を招く。)


ネット空間で、そういう言葉に敏感になる習慣がつくと、周囲の「リアル」な人々の言葉にも、同様に浮薄で傲慢な論理が隠れていることを感じ取ってしまう。


ある国のある競技の活躍は、ドーピングのせいなのではないか、と言ってみたり、体格や遺伝子、人種、環境、生活習慣のせいで、自分たちはかなわないものだと決めつけてみたりする発言は、身近に溢れている。
戦犯をあげつらい、よくある組織批判を展開して、敗戦の原因をしたり顔で分析してみせる人だって、濃淡はあれど探せば周囲にはごまんといる。


あえて文字にして天下に晒す神経は、より一歩程度が悪いと言えるが、リテラシーとデリカシーの有無を責めることはできても、発想の本質にある隔たりはそれほどではないかもしれない。


さも、自分だけは「わかっている」かのように、ここに文を書きつけた私も、同じ地平のさほど遠くないところにいて、「同類相憎しむ」の要素もなくはない。
共感力を高め、想像力を豊かにすることの重要性は叫ばれつつ、世界は独善と不寛容に覆われゆくかのようだ。


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