チャレンジとこども


家でオリンピックのニュースや中継で熱戦を前にすると、娘はどんなスポーツをするだろうか、といった話を相方とすることがある。


自分の子がする、という視点で見ると、なかなかにスポーツというのは危険なものである。
先日のコーチ講習では、法的な内容を扱う講義では死亡事故や後遺障害に関する事例が山ほど出てきたし、スポーツ外科的な内容を扱う講義では思わず目を背けたくなるような様々なケガの事例が紹介された。


ヒトの生物学的な要素として「好奇心」というのは最も重要なもののひとつだ、と考えているので、はらはらしつつも、危険を顧みるよりは、突き動かされて努力と工夫で乗り切っていくことを後押しできる親でありたい、と思ってはいるが、さあて実際に直面したらどうなることか。


昔との比較で考えたとき、「ハングリー」かどうか、ということはよく取り上げられるが、単に「ひとつの家庭に子供がたくさんいた」、ということも大きな違いであるなあ、と最近とみに思う。


相方は3人兄妹なのだが、「3」という数はなかなかに意味深い、とよく言う。
澤口俊之氏の、幼児の脳の発達についての議論でも、地域のコミュニティが貧困化してきたときに、核家族が子どもに健全に「社会性」を獲得させる最も簡単な方法は3人以上生むことだ、というのがあった。
これは「集団」の効果について言っている訳だが、子どもが多いと少ないとでは、単純に親や子どもの感じ方がちがってくる。


相方曰く、兄妹はたくさんいると、それぞれに自分の得意不得意が身にしみるのだそうだ。自ずと子供は棲み分けをはかることになるという。
親もおなじような子ばっかり、を望まないことが多くて、多様であることが家庭において当たり前の前提になってくる。個々のチャレンジも自然に奨励することになり、親二人がカバーできる多様性はたかが知れているから、親のよくわからないこともどんどんやらせざるをえない場面が当たり前に出てくる。
チャレンジさせることが、別によく考えた結果、というより、なんだかなりゆきで気がついたらどんどんそうなっていた、という具合らしい。


一人っ子にチャレンジさせる勇気が親に涌くか。
なんだか、チャレンジさせること自体が、強い意思を伴う「育児方針」のようなものを要する、ちょっと難しいことになってしまうんじゃないだろうか。


少子化(一家庭あたりの少子化と全体の少子化はまた違うのだが)と、つい周りに合わせた無難さに流される重苦しさとは関係がありそうに思う。時代とか国とかいう、大きな集団でも、好奇心旺盛にどんどんチャレンジする傾向、みたいなことと育てる子供の数に相関があるかもしれないなあ、なんて考える。


・・・ふとテーブルの上に「もっと赤ちゃん産もうよ!」という文字が踊っているのが目についた。
相方が今月から取り寄せだした、自然育児をすすめる会の機関紙の表紙だった。
思わず開いたら、4人・5人を産んだふたり(中島デコさん・日登美さん)の座談会が載っていて、なんだかとっても活気に満ちた文面で、ええっと驚くような出産や子育ての話が、随分と面白かった。
肩肘張らない自然なまぶしさに満ちた内容に、あんまり難しく考え過ぎなくても大丈夫、とこちらまで何となく肩が軽くなるような感じがした。
たくさんの子がいることの力は、やっぱりすごい。


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