柔道とルールに思うこと


谷本歩実が、2大会続けてすべての試合に一本勝ちするという、見事なオリンピック2連覇を果たした。


柔道は年々ルールの修正が重ねられ、今では「技あり」・「有効」・「効果」別の表示ではなくトータルポイントとして計算された数字で両者の優劣が表示されている。
「ジャケット・レスリング」の異名そのものになってきた観がある。


大会初日には、3連覇を狙った谷亮子が準決勝で終了間際の警告によるポイント喪失で敗退。わかりにくい負け方(勝ち方)が、この度も少し論議になっているようである。
ただ「わかりやすさ」については、少しでも積極的な攻撃の姿勢が見られなければ警告を出す、という姿勢が一貫してきた一方で、積極性を偽る、いわゆる掛け逃げも厳しく警告するようになって、随分はっきりしてきたように感じる。
出るんじゃないかな、というところで警告が出る、という感じになってきた。
谷の試合でも、あ、やばいな、谷だけ出されるかなと思った矢先の警告だった。


問題は、それが「柔道」なのかどうか、というところなのだろう。


今日の谷本のようなパフォーマンスを前にすると、ルールについての変更点や問題点についての議論はかすむ。
「競技会」という枠の中できちんと「勝負」がついているパフォーマンスには、何ら問題はないのだ。
「勝負」がついたといえないものに、無理やり勝敗をつけなければならない時に、細かな工夫が必要になって、いろいろおかしなことが起きてくる。


浦沢直樹の描く猪熊滋悟郎に感化されたわけではないが、一本取らねば勝ちとはいえないとして「常に一本を取ることを目指す柔道」、柔道の本質的な姿勢はそこにあるのではないかと思う。はっきりそのことをインタビューでも語る谷本は潔い。
一方、ジャケットレスリング化したJUDOで勝ち続けていくには、いつまでもそんなきれいごとに縛られていてはいけない、男子はすでにそれを貫いて勝つことはできない次元になっており、女子は単にそれに至っていないだけだ、とする論者もいる。


審判という他者の目によってつけられる「ポイント」を稼ぐ方法をせっせと学び磨くことが、格闘技における本筋の精進であるとは思えない。
技のゴールを「決める」ところから後退させて、「崩す」でいい、というだけの意味のことに、さも知恵があるかのようなしたり顔で言うことの愚かさは知っておいたほうがいい。
それぞれに目指すのは「効く」技を身につけ、それを戦いの中で「決める」技術を磨くことの他にない。
「決める」とは一本を取ることである。
選手によっていろいろなタイプがあり、スタイルがある。結果的に勝負が「ポイント」という形で決着することの多い選手もあろう。しかし、本来なら「勝負がついていない対戦」を無理やり勝敗づけるようなポイントをそこで連想してはいけない。一本ではないが、そこに戦いにおいて両者の本質的な「差」を表したパフォーマンスこそが「ポイント」なのである。
それは「稼ぐ」という発想からは遠く、あくまで一本を狙い続ける姿勢からしか出てこないものではないか。


「競技」としての柔道自体は成熟を目指して、「本質的な差」を表すパフォーマンスをポイントとして拾い上げるよう、たゆまぬ努力が重ねられていくであろう。
「稼ぎ」にきたパフォーマンスを切り捨てる方向へと、方法を模索しながら変わっていこうとしているはずである。
一本に準じるものを求めて模索中であるがゆえに、不確かで、まだ今は「稼いだもん勝ち」に見える部分が残っているが、その誤差のような部分を狙いに行くようになってはいけない。
それは本質から離れたものである。


自分がする射撃においても、競った状況で明暗を分けるのは何か、状況をしのぐコツのようなものについて考えることはある。尋ねられることも多い。
しかし、10点以上を撃ち続ける技術そのものを我々は競っているのだ、という原点から状況をいつも捉えることが、その時にできること、すべきこと、を明快に浮かび上がらせてくれる、ということを忘れてはいけないと思う。


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