五輪開幕


この週末は夏らしい休暇を、と昨晩、淡路島にやってきた。
相方の母が、先に入って夕食を用意してくださったので、到着して風呂にだけ入れると、そのあとは舌鼓を打って、ばたんと寝てしまった。
ちょっとこれまでの疲れが一気に出てしまった感じがある。


夜更けに目が覚めて階下に降りると、テレビに北京五輪の開会式の中継が映っていた。
もうセレモニーも終盤の、選手入場のシーンであった。
福原愛を先頭に日本選手団も入場してきた。
おおむね好意的な歓迎の歓声にほっとする。


中国プロリーグにおけるけなげな頑張りで、中国でも愛される存在となった福原選手が、「日本チーム」全体の印象を下支えする「貢献度」はなかなか大きいのではないかなあ、と思う。
福原選手が北京に到着したとき、中国のファンが集まってもみくちゃになったために、記者会見ができなくなるほどだった、という。
ある集団の中に、ひとり心許している人がいて、そのひとがその集団にとっても大切にされていることがわかる、ということは、二つの集団を宥和する上で効果的だし、熟しない関係を一歩前に進める上でとても大切なステップだ。
中国で開催される五輪において、愛ちゃんが旗手を務めたことは、とってもよかったし、愛ちゃんはしっかりその辺も感じながら、しっかりと引き受けているようだった。


今朝、開会式の全貌を特集番組で早速観た。
躍進して先端の一翼を担っている国であることを、文化的にも技術的にも洗練された形でPRした、なかなかすごい開会式だった。
宇宙人が来ていたら、地球で4年に1回やる最大のイベントショーはこれです、と見せていいな、という感じ。
毎回、五輪の開会式は「すごい」のだが、クライマックスが印象的であることは変わらないものの、全体としてここまで緊密で飽きの来ない、圧倒され続ける感じの開会式は、そうはなかったように思う。


たとえば、アメリカのオリンピック(ソルトレークアトランタ)の開会式はショータイムを積み重ねていくタイプで、出演者の顔ぶれの豪華さには感心するが、イベントとしては半分くらいで食傷気味になる。また、長野五輪は、演出が昇華されきっていないままの土着文化の紹介という感じになってしまい、それが「ユニバースよりローカル」というような「カウンター」のつもりであったのかもしれないが、かといって各地のそういうものへの尊重をわが国が先導して尊重していく、という主張というわけでもなく、ただ、誇るとしたらその程度のものしか「日本」からは出てこないのか、という失望感の方が強かった。


海を見ながら、部屋でのんびり過ごす一日になった。
0歳の娘を連れて、そうは外に出るわけにもいかない。なにより彼女には、過ごす部屋が違うだけで相当な刺激で、もう十分に大旅行だ。


テレビには引き続きオリンピックの中継が流れている。
4年前のアテネは、出来過ぎの上にも出来過ぎだったので、どうしてもそれと比較されて、今回は「苦戦」のイメージを伴う大会になるだろうと思う。
それでもその前の数大会のように、金メダルを3から5個とるのが精一杯、というようなこともないであろう。
トリノソルトレークで懲りて、大会前の水増し報道もいくぶんマシだ。


やはりすごいイベントだ、と実際の競技の模様を眺めながら、あらためて実感する。


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