重圧の選手選考


全日本選抜学生選手権がはじまった。


母校のコーチや学生連盟の理事でありながら、監督会議に出席しなければならない、という義務感以上には熱心に学生の試合を観に行かない私であるが、今回ばかりは事情が違う。
今秋の世界学生選手権の代表チーム監督となって3ヶ月あまり。今大会がその派遣選手選考会、ということで、なんというか、大会の渦の中心に立つようなことになってしまったのだ。


開会式に間に合わせて会場に姿を現し、競技会場をうろうろ。選考対象となる選手たちの様子を片っ端から伺いながら、強豪校のOBや監督などに頭を下げる。
男女とも3種目のべ9人の枠を4人で賄う、という派遣条件であるから、出てくる結果に応じて私自身の「総合的」な判断が強いられる。
結果が出揃うまで何もできないとわかっていながら、試合のはじまりから何もかもが重苦しい。


常に「周辺」で過ごしてきた者の宿命で、学生連盟組織の内情や母体となる競技団体との関係などにはどうしても疎く、有力選手たちの背後にある名門といわれる各大学射撃部がどんな論理で動いているのかも、皮膚感覚としてはどこまでもわからない。


選手もOBも一通りは見知った名前や顔がほとんどである。競技者としてなら対等以上となった今も、こと今回のような立ち位置に持ってこられると、借りてこられた猫が無理やり采配を振るうような心地で、疎外感と非力感に終始冷や汗びっしょり、といった具合である。


母体の競技団体の視点からは、派遣費用を負担する以上当該大会で入賞の可能性のないチームに払う金はない、あるとすれば「将来性」について一定の説明責任を果たせる場合だけだ、という暗黙のプレッシャーがある。
各大学からは、自分のチームの選手が納得できない選考理由や出場枠の削減で派遣から外れるようなことがあれば黙っちゃいないぞ、というわかりやすいプレッシャーがかかる。


私にとっては、「ライフル射撃」という、決してメジャーでなく、国民感情的に逆風も吹くこの競技の未来にとって、最も益のあるように大局的な視野に立ってこの事業を行いたい、という思いが支えである。
ひとことで言えば、代表としての海外遠征という一学生にとってこれ以上ない名誉である派遣事業を通じて、将来この競技を「支えてくれる」人材を育てたい。


その人材とは、将来日本代表となって金メダルを獲る「選手」だけを指さない。
派遣された誇りを胸にすることで、後進の面倒(指導とは限らない)を見続けてくれる人になったり、射撃好きとしてどんな激務の合間にも競技を細々と続けて、地方協会や学生組織の運営を支え続けてくれる人になったり、銃は手放しても射撃スポーツの魅力を周囲に語り続けてくれるサポーターとなったりするのであってほしい。
そういう人こそ、あるスポーツが根づき栄えてゆく上で不可欠なのである。


それらは「選考基準」にはなり得ない。しかし、選ぶ時点からそういう願いは力いっぱい込める。
込めればこそ、選ばれし者には、そうあることを改めて期待する。活躍すればそれを喜び、活躍できなくてもそれだけでないことを訴える。
誇りのあり方、誇りの価値は、試合の結果だけにあるのではない、と。
5年前、幻の第1回大会で監督を務めた時には、今以上にお膳立てされた上に乗っけてもらい、こんな思いだけで走りきることができた。


前年度までの世界学生の結果を基準に今回の大会成績を分析する一方で、決して口にはできない、心に渦巻くいろいろな記憶や思いに眩暈する。


代表をめざし、今選手たちは自分の目の前で死力を尽くしている。
オープンな選考会は、競技者を奮い立たせ記録はともかく熱戦、好試合となることが多い。
自分もまた、14年前に同じような選考会で、選考会に特有の激戦を同じように戦い、異様な高ぶりと共に代表を勝ち取った。その時の心の蠢きが蘇るようだ。
あの蠢きが、今もまだ、忙しさの合間に射撃に関わり続けている原動力のひとつである。


明日、すべての結果が出た時、冷や汗と動悸に翻弄されながら決断を下す。


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