書きたいことと事実


朝の通勤電車。経済誌を読みふける人の隣にいると、時々見出しが目に入る。
アメリカの景気後退について、80年代のものよりも今回の方がましに終わるであろう、という内容のようだ。


予測は当たることもあれば当たらないこともある。大きな話ほど、外れたときもその想定外だった要因を探すに事欠かないから、そのことに真正面から責任を負うことはない。本人の自覚の有無はともかく、こうあってほしい、こうだろうという観念を元に事実は「見え」、それを織り上げて意見となる。
わざわざラカンやなんかを引き合いに出すまでもなく、現実は各自の見たいように見えている。


そのことが悪いのではない。
実際、その人はどんな風に(たとえば世の中を)見たいのか、ということの方に割かれる関心の方が大きいのだから、それでいいのである。
その「見え方」が評価されたり支持されたりするかどうかは、それが「なるほどありそうだ」、「そうなって欲しい」と思わせる魅力があるかどうかにかかっており、支持する「他者」がどこかにいる限り、その「見え方」は「あり」ということになる。


昔は新聞などの活字メディアの他にはラジオやテレビなど大きな「ツール」しかなかったが、今はネットをはじめ、「見え方」を「共有する」ツールがたくさんあって、「なんでもあり」になっているから、「あり」の範囲は広くなった。
その結果「見え方の乱立」を導いて、昔に比べると各自の一定の視点からは「共有しにくい見え方」が跋扈しているように見える。
それらが自分の「見え方」を脅かしているように感じて「不寛容」を生み、その一方では、すぐに共有相手が見つかるが故に自らの「見え方」について省察する習慣が失われ、いわゆる「練られない、幼い」言説から一歩も抜け出ようとしない者を増やす、ということになっている。


玉石混交はどこにでもあるが、「玉」を見出すのに一定の訓練を要し、まず触れるのが一見したところ「石」に覆われたような風景、ということが「世界との接触のはじまり」の普通になっているとしたら。
何人が「玉」を求める努力に向かい、何人が「こんなものか」と世界を見下して、自らの幼い価値判断で「マシ」と感じる「石」に安住するか。


「情報」という側面が享受している、ネットの持つ「ロングテール」的なメリットは大きい。では「言論」・「世界観」といった側面にも同様にそれはあるのか。


間違いなくあると思うが、手ごたえには格段の「量的」な差を感じる。
量的な差は「工夫」で埋められる可能性が高い。
国語的なトレーニングの重要性に議論は戻ってきて、じゃあどうそれを進めるのか、ということになるのだろうか。


そんなことを書き散らす自らも結局は「石」のひとつでしかない。自らを戒めつつ、つらつらと考える。


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