山口百恵


GOLDEN☆BEST/PLAYBACK MOMOE part2
帰りの疲れ果てた車内で聴く音楽はさらに時代を遡って、ここ数日は山口百恵
幼少時にテレビで見た引退コンサートは、断片的だが鮮やかに覚えている。しかし私にとって「リアルタイム」の歌手というよりは、終電車でたまたま乗り合わせた、というぐらいの同時代か。時期がさほど変わらなくてもピンクレディーには強い同時代性を感じたりするのは、彼女たちの対象範囲に幼少の私が含まれていたからで、山口百恵は当時の私たちなどお呼びでなく、背伸びのしようもないほど遥かな年長者を「相手」にしている存在だった。


子供心にも感じた全国民的な事件としての「引退」のざわめきを除くと、リアルタイムで体験し記憶にあるのは、「プレイバックPart2」や「絶体絶命」のイメージであり、凄みを利かせるちょっと怖いお姉さん。「大きくなると男と女はいろいろあるらしい」という、恐れを伴う好奇心を形にしたら山口百恵、というようなものだった。


昨年末、阿久悠さんが亡くなられた際に、いろいろなところで「歌謡曲」が振り返られ、少し時間的に遠ざかった今だから感じられること、をたくさん見出す思いがした。
何かの企画で音源が必要になって、その時使ったきり置きっぱなしになっていた山口百恵を、このたび聴いてみようと思ったのは、たぶんその思いを経たからだ。
幼すぎて私にとっては、その時代に戻って感慨にふける、というような時期ではないので、歌自体への興味になるのだが、面白かった。30年前わからないままに断片のまま記憶に刻んでいたものが、再現されて全貌を現すのは、なかなか刺激的な体験である。


ちょうど頭に入ってくるスピードで、歌詞が明快に心象や映像を語る音楽。長調だろうと短調だろうと聞くときの構えが楽で心地よく、はっきりと立ち上がってくる「歌詞が作る情景」を「体験」する楽しさがある。


売れることを目指して作られる「音楽」なり「映画」なり「番組」には、成功の陰に社会なり消費者なりの感覚を反映させる棘のようなものが必ずある。「プロ」のひとたちはその嗅覚をツールに生きている。素人の私(たち)にも、なんとなくはそれがわかって、あてずっぽうに、それに刺さってみたり、これがそれかなと勝手に批評したりして楽しんでいる。
私はジャンルにしろアーティストにしろ「聴きたい」音楽に周期があって、思わぬものが聴きたくなることがある一方、それが合わないものはなかなか聴く気にならない。私の中で心地よい「棘」がくるくると変わっているのであろう。
もうしばらく「疲れた時には歌謡曲モードの音楽」というのが続くのだろうか。


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