お宮参り

お宮参り



毎年初詣に訪れている、近所のT神社にお宮参りに行った。


昼前に相方・相方の両親・娘が久しぶりに我が家にやって来た。相方は実に1ヵ月半ぶりの帰宅である。
私の両親と昼過ぎに合流して、車2台でお宮に向かう。


女性陣は全員和装。私と二人の父はスーツ。
大移動に全くの新しい環境続きの娘は、1ヶ月検診に続き「危うきは眠るに限る」作戦をとっているようで、薄目を開けて周囲をうかがいながらも、眠っている態勢を崩さない。姪のときとあまりに違う静かさに、感心するやら可笑しいやら。


T神社はこの20年余り、周辺が大阪のベッドタウンとして大規模に宅地開発されてきたのと歩みを同じくして改修や築造が進み、このほどようやくそれが一段落した。本殿の右手には祈祷や講話の行える立派な建物ができあがり、今日の祈祷もそこで執り行われた。
今回初めて中に入ったが、ぴかぴかに真新しく明るいながらもそれなりに落ち着いた印象であった。朱・緑・黄の真新しい神道カラーがふんだんに用いられているが、要所は無垢の材が効いている。御簾の内側に、御神体の丸鏡が中央に掲げられ神具が並ぶ。シンプルで明快、寺院とは対照的な趣である。
祖父母の家には仏壇も神棚もあって、どちらにも手を合わせたものだが、先祖が眠っていることになっていて、法事やら何やら場の主役を演じることがあるのが仏壇だからか、そちらを基準に「宗教的」なものを見てしまう習慣が知らず知らずついているように思う。いろいろ見知っているはずなのに、神事に対してはいつも「目新しさ」や「新鮮さ」を感じてしまう。


神事は、きりりとした立ち居振る舞い、身体の様式美に神々しさが宿る、といったところがあって、体裁きや声に「あるべき姿」のようなものがあると感じる。(単に執り行う者の年齢、ということでなく)ある種の若々しさのようなものが必要な印象だ。動きが少ないためか、仏事の方は、年老いた僧の静かな読経にも、若々しい僧の強い音声にもそれぞれに良さを見出しやすく、寛容になりやすい・・・かな。


神事を執り行ってくれたのは、若く、声も振舞いも落ち着きのある神官だった。
母が娘を抱き、両側に私と相方が座る。「父」として、首に帯のようなものを掛けて祓いをうけ、二礼二拍手一礼、祝詞を聴き、太鼓にびくっとしながらも静かにしている娘に微笑み、榊を捧げて心で祈り、最後に鐘を頭上に受けて、無事に終わった。


一旦家に戻って態勢を立て直してから、と思っていたが、時間的なこともあってそのまま予約していた近くの料理屋に食事に行った。
高台に立つそれは、大和平野を見渡す眺望も、桃の節句の季節感に満ちた料理もすばらしく、十分に堪能した。
和装ではなかなか頻繁におっぱいをあげるわけにもいかず、娘には今日は試練・苦難続きの一日となった。家に戻ると、ようやく緊張が解けていつもの声で泣きだした。


出産を前に入院して以来、外出らしい外出のできなかった相方には、今回のお宮参りと会食はとても楽しく、解放感いっぱいのできごとであったようである。
ふたたび生活拠点をこちらに移すためには少しまだ準備が要るので、名残は惜しいがもう1週間だけと、すっかり日も暮れてから実家に戻っていった。


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