Kさんの死


11月も終わりに近づき、ぽつぽつと喪中の葉書が届く。
直接に知っている知人・友人の祖父母や父母、直接には知らない方の訃報のことが多い。
しかし今日届いた葉書は違った。手に取ったまましばし立ちつくしてしまった。


2003年に高畠町でひとり、合宿させていただいた時にお世話になったKさんの奥様からの葉書であった。


2001年から2004年、アテネ五輪に向けた強化期間には、様々に新しい取り組みが進められていた。

  • 国際標準から取り残されつつあった「技術」を、真剣に学びなおすための、海外からの一流コーチや選手の招聘。
  • 身体技術の極限を極め、世界と戦う上で重要であるにもかかわらず、根本的には顧みてこられなかった、「食」そしてそれを支える「農」の見直し。
  • 厳しい銃刀法をデメリットではなく、先端技術を取り入れたトレーニングの開発契機と捉えて進めた、「デジタルシューティング」テクノロジーの開発。


ライフルにはインドを一気に世界トップクラスに引き揚げたハンガリー人コーチのスーチャックさんを、ピストルには組織的な強化に定評のあるブルガリアからエミールさんを招いた。
スーチャックさんと共にいて、触れたもの。それは、系統的な技術論の厚さ、国際的な技術についてのネットワークの豊かさ、豊富に持っている技術オプションの中から、選手やチームの水準に応じて見せ方を変える方法、個の指導と組織的な強化それぞれに方法論を持って、長期的な視野で展開することなど。私の水準に応じた部分を垣間見ただけであるが、それは私にとって、常に驚きをともなうものだった。
エミールさんから間接的に学んだもの。それは食や環境の重要性、多様な角度・切り口からフィジカル面を捉え直すきっかけ、スポーツをする者が謙虚に紳士的に振る舞うことの大切さなど。専らとするのが別の種目であるので、具体的な技術の面では教わる機会はないのであるが、「スポーツをする者」として大切なことを多く私にもたらしてくれた。私が射撃と身体操法を結びつけてとらえるようになったのは、エミールさんがもたらした「ボディバランスボード」を使ったトレーニングが端緒になっている。


「食」や「農」への取り組みとして、有機農業の先端の地、山形県置賜高畠町に「サポートクラブ」を組織。「デジタルシューティング」の開発を請け負ったのがNEC米沢で、そのいち早い導入と機材のテストへの利もあって、強化の拠点を山形に据え、合宿などが行われた。
射撃場・サイクリングコース・プールと要所を押さえ、都市部とひと味違う練習環境があった。考え方によって評価はいろいろと分かれるであろうが、強化の本質をよく考えた取り組みであったことは確かだと思う。


しかし、これらの取り組みは「本流」になることなく4年間が過ぎていった。


1つめについては、二人のコーチがもたらすものへの、「驚き」や「感動」が、あまり共有されないことが私には驚きであった。「同じようなものはすでにある」と思う人が多いのが不思議であった。目に見えて現れた成果すら、「偶然」と見なそうとする空気が、信じがたかった。
「すでにあったもの」が「似たような別物」や「安いフィルターを通したもの」であったからこそこれまで上手く行かなかったのではなかったか。「似たような別物」の問題点や、「安いフィルター」のせいで目を凝らしてもよく見えないもどかしさを、もっと多くの人々が感じている、と思っていた。


2つめについては、私にとって高畠町有機農業家にして和法薬膳研究所の運営者である菊地さんとの出会い自体が刺激的な出来事のひとつだった。合宿で訪れるたびにする菊地さんとの談義はもちろん、菊地さんの作る様々な農産物をただ食べるということにすら、「農学部で一通りの講義を受けながらも『農業』を研究することがなかった」という過去の欠落のひとつを埋めるような喜びがあった。
しかし、「食」や「農」についての考えや感動については、「他の多くの射撃関係者」と共有することはさらに難しかった。口で「大切なことですね」と言いながらも、実のところは軽視している人がほとんどであった。


そして3つめについて。デジタルシューティングは早々に相当に高い完成度が評価されながら、先行業者の既得権や、導入にかかる費用の問題でなかなか軌道に乗らず、いたずらに時間が過ぎた。今年ようやく、国体の種目の一つとして位置付いたが、当初に描かれていた構想からは遠い。


これら「新しい取り組み」の流れから有力な選手は現れたが、日本代表に選ばれるまでにはならなかった。国内においてすら「すでにあったもの」を凌ぐに至らないまま4年は終わった。
2004年アテネ五輪は、日本勢の大活躍に湧く中、ライフル・ピストル射撃競技からはメダリストはおろか入賞者すら出せないままに幕を閉じた。
翌年からの体制では、国内の試合体系や、代表選手選考法などに一部名残を残したものの「新し」かった部分の多くは姿を消した。


私は、トップクラスの中核にはほど遠く、その一角にたまたま食い込んだ射手のひとりに過ぎない。しかし縁あって、山形には何度も足を運ばせてもらった。後輩を連れて長い合宿に参加したこともあるし、一人きりで合宿させてもらったことも、ただ記録会に参加するためだけに雪の中を飛行機でのこのこ出かけたこともあった。


Kさんは高畠町の「サポートクラブ」の事務長をしておられた方だ。退職して東京から高畠町に移り住み、第二の人生を満喫しておられた。交渉ごとをスマートに進め、明晰で明るいKさんは、クラブのみなが一目置き、頼りにしていた。話が上手で、自然と人の輪の中心にいるKさんと、上品でかわいらしい奥様は、本当に素敵なご夫婦だった。
2003年にひとり高畠町で合宿をしたときには、Kさんはじめ、高畠の人たちには本当にお世話になった。そして、とてもかわいがっていただいた。
「あなたが、代表になって金メダルを取らないと」
と、ずいぶん励ましてもらった。
私が訪れる半年前に、高畠町にはシドニーの金メダリスト、フランク・デュモランが長期にわたって訪れており、みな本物の射撃の金メダリストをよく知っている人たちであった。その上でなお、私がそのようになる、と信じて応援して下さっていた。
宝物のような時間であった。


結果的には、最終選考会まで代表レースには加わったものの、そのような候補として目されることもなく私のアテネは終わった。
しかし、この4年間、中でも2003年の夏に得たのは、思い出だけではなかった。この時期に発見したこと、取り組み始めたことはものすごく多い。1年前という、ある意味直前にあまりに多くの「気づき」があって、その後慢性の消化不良に陥っていた、と言えるくらいだ。今も4年近くを経てなお、2003年に立ち返って、消化しにかかる素材を取り出してくる。それくらいに多かったのだ。


高畠にはその後、足を運んでいない。
射撃以外のことにも追われて「次の」4年は過ぎた。もうあの4年と同じには過ごせない。人生の季節はどんどん移り変わってゆく。でも、高畠で受けた励ましには、まだどこかで「応えたい」と強く思っている自分がいて、射手として私自身が納得できる結果を出せないでいる限り、どこか高畠に対して後ろめたさを持ち続けている。
「結果」が出せたときか、本当に射手としてギブアップしたときのいずれかにしか、訪れられないような気がしていた。そしてその時にはKさんはじめ、たくさんの高畠町の人たちにお礼を述べに行って、楽しくお酒でも飲めたらいいな、そんなことを時々考えながら、ずっと菊地さんのお米を食べ続けていた。


なのに、Kさんは亡くなってしまった…。
4年前のことをいろいろと思い出して静かに手を合わせ、ただ冥福を祈る。


[fin]