何もないときの練習

ライフル立射用



11/4にも、練習に行ってきた。
帰途でぶつかる渋滞を避けるルートも探し、だんだんと射撃場に馴染んできた。



今週は、日本選手権なのだが、今年はどうしても休めない仕事の巡りで、本当に久しぶりに出場をあきらめた。残念である。


しかし、何か目の前に結果を求める試合や具体的な目標やプランの無いときの練習は、とてもいい。
純粋に果てしない遥かな高みのみを求めて、自分を見つめ、技術を洗い直す練習ができる。
後で振り返ってみて「いい発見だった」と思える気づきは、たいていはそんな練習から生まれてきた。


長期目標―中期目標―短期目標と、スケジュールと同期した具体的な到達目標を定めて、練習計画を立てていくことが、一般的には勧められている。実際にコーチとして講義する立場となったときに、そういう話をすることも少なくない。
効果がありそうな空気はすぐ漂うし、理屈が実に単純なので、便利な話なのだが、正直に言うと大きな嘘でもあるような気がしている。


スポーツに限らず、現在の主流であるこの発想に疑問を感じない人には、真理であろう、と思う。そういう人には、実際に絶大な効果もある。だから(そういう意味で)嘘ではない(だから私も状況に応じて話もする)。でも、自分にとっては「嘘」だなあ、と思っている。


今の私が想定できる次の一歩は、所詮「今の私」に想定できる程度の「一歩」である。
そんな「一歩」しか想定できないから、「今」の程度の私でしかなく、更なる向上を強く願ってしまうのである。
「一歩」ですら、そんなものであるのに、それをさらに帰納的に押し伸ばして立てる中期目標、長期目標なんて。高みを目指していながら、自己肯定・現状肯定をしてしまっているとしか思えないのだ(自分に厳しく、今の自分を否定的に捉えて目標などを考えていたとしても、その「今の自分の問題・不足」の捉え方が、「今の私」特有の捉え方でしかない、という点で同じだろう)。


「今の私」と「遙か彼方の理想像」だけがあればいい。到達成績や特定の大会への出場、タイトルの実現など、変に具体的な目標なんかいらない。
冷静に「遙か彼方の理想像」を目指して、今の自分を謙虚に振り返る。体全体の感覚をとぎすまし、その理想に向かっている要素・萌芽を嗅ぎ取って、その分析と仮説構築をし、試行する。


そんな中にしか「次の一歩」の芽はない、と思う。
一見、何もないときの練習にしか、なかなかそのようなことは出来ていないらしいのだ。


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