サロンコンサート

チケットとパンフレット



仕事の後で相方と待ち合わせ、小田切美穂さんのサロンコンサートに行ってきた。
会場は梅田のカワイショップ。プログラムはシューベルトショパン、休憩を挟んでヴィヴァルディ、ドビュッシーだった。


芸術は、素直に感じるままにいいと思うものを楽しめばいい、と言うが、「楽しみ方」に受け手のセンス・経験・知識がどうしようもなくあらわれる。怖さをともなったよろこび、である。今の自分が感じる良さは、所詮今の私に感じられる程度の良さでしかないかもしれない(あるいはその逆だってもちろん)という謙虚さなしには、受け手もまた醜悪な自己満足に堕していく怖さがある。


田切さんが帰国していることは、このサロンコンサートの本人からのお誘いで初めて知った。同窓にしてご近所の彼女が、大学卒業後ミュンヘン、ウィーンと留学を重ねていたことは知っていたが、その後も短い帰国を挟みながら、この春までミラノにいたそうである。


西洋古典音楽の演奏者として修練を積む、ということの様々な難しさについて、かつて小田切さん本人からいろいろ聞いたことがある。その中で最も深く「難しさ」として感じたのは、「演奏者と聴衆が文化を共有できるかどうか」ということへの絶えざる不安、だった。聴衆が演奏家を育てる、とはよくいわれるが、演奏家を育てうる聴衆は果たして育ちうるのか。演奏家は聴衆を育てうるのか。教養として、教育として、文化というものは果たして育てうるのか。西洋古典音楽はそういうものとして、どのくらい切実な存在となりうるのか。


…そんなわけで演奏会というのは、なかなかにムツカしい。
とっても一生懸命に聴いても、演奏者の意図や演奏者の自己評価を確信をもって受け取れた、となかなか思えない。演劇や音楽は「過ぎ去ってゆく芸術」なので、見当をつけてつぶさに尋ねたり、解説をしてもらったりすることもできない。たいていの場合、無難に「よかったよ」なんて漠然とした印象しか、本人に伝えられなかったりする。感想や意見を述べるにあたっては、本当に恐る恐る…という感じにならざるを得ない。


今日は、初め、とっても重そうだった。ちょっと心配になる感じだった。全般にピアノが鳴らない感じで、弱音の方はおのずと限界があるから、上がつかえてしまっているような印象だった。全体の音量がもう少し大きい方にスライドすれば、のびのびするのに…というのは素人考え、なんだろうなぁ。
休憩の後のヴィヴァルディとドビュッシーはとても楽しく聴けた。
プログラムの最後に持ってきているくらいだから、もちろん「聴かせどころ」だったのだと思うけれど、「映像 第2集」の第3曲「金色の魚」と「喜びの島」は、キラキラとした曲想がふわっとあふれ出てくるようで、本当に楽しかった。


期間だけは一人前にピアノも習い、クラシック音楽は比較的好きだけれど、さりとて熱烈なファンというほどでもない私。いつまでも拙い聴衆のままだ。
でもちょっと時間なんか気にして、服装をいつもより正し、普段行き慣れないところへ出かけていって、演奏に静かに耳を傾けると、豊かな気持ちになれる。機会があれば、また演奏会には足を運びたいものだ。


[fin]