胎動

超音波映像



相方のお腹から胎動がはっきり感じられるようになった。


これまで一月おきの検診ごとに、エコーの写真を撮ってもらって来るので、それで胎児らしき影を見ては、「へえー」と感心してきた。
この間は、ビデオテープを持っていくと言うので、「なんだろう?」と思っていると、胎内の映像を持って帰ってきた。


えらいもんだ…。焦点の深度の変化によって、胎児の体内の骨格も透けて見えている。
忙しく手足を動かしていて、何ともせわしない。せわしなく動いてはいるものの、常に胡座をかくような体勢をしていたために、性別はわからなかったらしい。
胎児の体重や身長は画像から解析するらしく、ポーズしては画像に重ねて円を描き、頭囲のサイズを出したり、大腿骨の寸法を出したりする様子も映像には映っていた。


寝ようとしていると「ほら」と言うので、手をあてると、随分とはっきり動きまわる様子がわかるので、びっくりした。
もう「生まれている」のだなあ、と思う。もうちょっとさかのぼって、受精したときから「生きて」いる…。観念の問題でなくて、実感として。


出産は確かに「誕生」の瞬間として「それ以前」と「その後」で親も子も天地がひっくり返るような「大変化」をする「切れ目」なのだけれど、少なくとも「子」の側からは連続した時の流れの中の1つの大きなイベントなのだろうなあ(覚えていないけれど)。
顔を出さないだけで、母のおなかの中で生活するカンガルーの子供とおんなじだなあ、と思うし、蝉の幼虫がずっと地中に生きていてもやはり蝉であることともおんなじだ、と思える(そんなたとえはいやだ、と子供も母親も言うかもしれないけれど)。


ドンドンと暴れている様子の子供を、「まあまあ、そんなに張り切らないで」とそっとおなかの上からなでてみると、すーっとおとなしくなった。
外への好奇心を存分にかきたてて出ておいでよ、とも思うし、一回出ちゃったら、二度と戻れないんだから、じっくりおなかの中を満喫してから出ておいでよ、とも思う。


なんだかんだいいつつ男親のわたしは、こうやって夜のひとときだけ、手のひらというわずかな接点と、想像力だけできみとつながっている。


[fin]