ある終着点


「何かの目的に沿ってだれかに自分、あるいは特定の人を紹介する」
と書くと、有効な方法が常に探り出せて当然であるかのように見える。


でも、たとえば「自分を誰かに紹介・説明する」だけに限ったって、強く明快にPRしたり特徴をわかりやすく打ち出したりすることばかりが「善し」とはならないシチュエーションが実は多い。
いろいろあれこれ考えて、取り得たもっともマシな言動が、結局もじもじと控えめにしているだけでしかなかった、なんてことはあるものだ。


逆に場面や目的を与えられる「プレゼンテーション」は「なんと楽なんだろう」と思ったりする。


まわりくどい書き方であるが、今日は家族同士で紹介をしあう日だった。


自分が親の口を通じて説明・紹介されるのを聞いた。


そこには、面と向かった会話では乗ってこない贔屓目な評価があったり、自分の中では埋もれていて今の年齢でようやく意味づけが可能となるような昔の出来事があったりした。


面映ゆく、くすぐったく、落ち着いて座っていられないような心持ちだった。


しかしこれは、おそらくこの場面っきり聞けない言葉で、近頃はすっかり大人になったような気になっていたが、私はやはりこの親たちの子供で、これらの言葉は(最近は密かに、しかし)実はずーっと今まで続いていた「子育て」の、ひとつの終着点だったんじゃないかな、と思えて、少し感じ入ったりなんかしたのだった。


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