想像力


今朝、トリノ五輪が無事に閉幕しました。


出勤前の時間とちょうど重なったフィギュアスケート・フリーの最終組だけはちょうど中継を観ることができました。とってもラッキーだったのかもしれませんね。荒川選手のすべりは素人目にも流れるような滑りのよさと華麗さが心に響き、最後のストレートステップの美しいシークエンスを観ていたら涙が出てしまいました。
その後、点数、メダルにそれがきっちり反映されてゆくのを眺めながら、本当によかった…と朝から静かに感動しました。


大会全般を通じては、平日、週末を問わず、とても忙しい時期だったので、新聞や流れてくるラジオのニュースなどで確認する、という感じで大会期間の日々は流れていきました。
私もメダルがたくさん取れて盛り上がっていたら、もっと観た、ということはあったかもしれません。


でも、メダルを取れないことについての論評や、人々のやや冷たい反応には、「つらい」を通り越して「怒り」に近い感じを持たざるを得ませんでした。
税金で賃金をもらって仕事で出場している、とでも思っているような発言が多すぎます。


選手達は、人一倍デリケートに扱わねばならない身体を抱えながら、時間も体力も競技に取られながら、何らかの仕事をし「生活」をしていくことに四苦八苦してきている人がほとんどです。


私は、普通の仕事をしながら、余暇と仕事の一部を削り取って競技者として高みを目指しています。非常に厳しいですがその延長上には五輪も見据えています。
私と同じ競技で高みを目指す仲間には、実業団や自衛隊で、競技の方を主にしながら仕事をしている者もいます。


しかし、今回のような「税金で賃金をもらって仕事で出場している」とでもいうかのような意見を前にしたとき、われわれはいずれも似たような立場であると思えます。
「スポーツへの理解」という言葉にすると、さも世間では認知が進んだかのように思われていますが、「スポーツを本格的にする者への理解」と踏み込めば、それはあまりにも粗末なものです。


仕事の後、つきあいよく飲みに来る者を称えても、早めに仕事を片づけて遠征に旅立つ者を容易に見下すような風潮は根強くある。
幸いに良い結果などを持ち帰ったとき、賛辞らしいことが並んでも、二言目には「好きなことをして、いいよね」。


成績やメダルだけを期待すんじゃねえっ!


「陰には様々な苦労が…」という表現は、とっくに使い古されているけれど、使えばそれでいいってもんじゃない。想像力がまだまだ全然足りないよ。
その想像力の欠如が、敗北にうちひしがれているが、しかし最高の舞台にとどくまでに闘い、這い上がってきたトップ選手たちを2度目に殺すんだ。


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