思惑を越えて


今年最後の射撃の遠征に行ってきました。
仕事後発で、静岡まで金曜日に移動。土曜朝9時から試合開始で、途中大きなインターバルを挟んで試合終了は7時すぎ、そのまま夕食摂って奈良へ帰る、というかなりハードな日程となりました。


先程ようやく洗濯機をまわして普段の日曜日、となりました。


あまりに長い一人の道中、ここのところの理解できないいろんな不愉快なことあれこれについて、自分が悪いのか、なにかほかの悪意によるものなのか、仕方のないものなのか、ああでもないこうでもない、と思いを巡らせることになりました。
暗くなったり、悪態ついたり、まあ一人っきりでしかできないような姿なのですが…。


客観的な状況整理をして、おかしい部分については問いただす、ということをしたくなる、のがわたしのよくない部分のようです。


だいたいいつも状況整理は合っているので、議論としては圧倒的に私の方が「正しい」というかたちで進み、私にとっての疑問点は明らかになりもやもやは晴れることが多いのですが、長い目で見ると私の前ではびくびくする人が多くなり、私に助言や問題点を指摘してくれる人が減り、事務的なやりとり以外はコミュニケーションがなくなり(私は「仕事」というものはそれでいいと思っているのですが、それ以外こそが、という方々は割と多い)うわさや評判あるいは陰口という形だけで自分のことを知る、という風になっていくようです。


私はこういうのはいわゆる共同体的なものの悪い面、だと思うのですが、苦痛に感じる人はあまり多くなく、むしろそれをこそ生き甲斐でもあるかのようにしている人の方が多いように感じます。


10代以来のイライラが今も…という感じで、うまく乗り切る術をいい加減身につけろよ、と自分にも情けない思いです。
もやもやした部分をはっきりすっきりさせる、というと聞こえはいいようですが、要は「他人の思惑」を気にしすぎていて、「もやもやしている」と感じることが多いのかも知れません。


「他人の思惑」を越えて、自らの正しいと思うことを着々と進めるべし。


堂々と進めている方が、本当に問題があったとき、きちんと指摘をしてくれる人が(案外身近でないところから)現れてくれる。
身近なところの顔色伺いながら感情の機微を読み取り調整しながら行動をする、ということはほどほどにしておかないと逆に臆病故の攻撃性が出て、周囲を萎縮させる。


…という、これまでにも何回かたどったような結論で、ながーい孤独なドライブは3時ごろ終わったんだけど…
どうなんかな。ちょっとは軽やかな心になって、ましにやっていけるようになるんかいな。


そうそう試合ですが…。
今年メインにしてきた10m種目は、かなり納得の得点をたたき出したものの、凄い点数をチームメイトに撃たれたりして3位。まったく練習できていない50m種目も、そこそこの点数で踏みとどまり、なかなかの収穫でした。


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