練習にあてる


平日休日を問わず、朝はちゃんと5時半には息子がまとわりついてきて起こしてくれる。
洗濯を干したり、朝食を用意したり、それを片付けたり…といつもの日課をやってから、今日は大丈夫だというので射撃場へと飛び出した。9時ちょうどぐらいに能勢に着いた。早起きは、無駄にならない。


今日は、滋賀で震災チャリティーの大会が行われていて、「本隊」はみなそちらへ行っている。趣旨には理解をしつつ、事前に予定が読めずエントリーできなかったこと、動員の手伝いに役立つことができなかったこともあって、個人の側から「届けられる先」に応じた募金を行うことで替えようとこちらに来た。
射場は、D産大の合宿、障害者射撃連盟の合宿、C大学の合宿、と大口の利用者が複数入っていて、人は多かったのだけれど、どこかひっそりとしていた。


障害者射撃連盟は、今回は岡山からKさんを講師に招いていて、ピストルの技術や海外での経験を伝授してもらおうとしているようだ。私が練習を始めるのと、記録会の開始がほとんど同時だった。練習で記録を取ることは滅多にないのだが、その偶然に触発されて、密かに一緒に取ってみた。方法を大きくいじっているのに、次に撃つのはいきなりブロック予選ということになりそうだった。スタミナ的なことは試合形式でやってみなければわからないし、歪みや、無理がかかっている部分、動作の中に対立・矛盾するものなどは、最小限まとまった量を撃ってみないと問題が顕になってこない。試合形式で撃っておくのは悪くないと思ったのだ。


滑り出しは悪くなかったが、案の定3シリーズ目あたりでおかしくなってきた。「来た来た」と探りを入れる。どうも頬付けしたときに、首や左腕や上背に、余分に余ったような感じがしたり、しっくり来なくて無理やり合わせるような動きが出たりする。


この間から、左肘を大きく体の正面側に引きつけている。これは個人的に、とても懐かしい姿勢である。射撃を始めた頃、借り物のジャケットと銃で教習を受けながら、師匠とやり取りをしながらあれこれ試行錯誤して、ひとまずたどり着いた姿勢の左腕が、ちょうどこうだった。
何もかもが借り物な上、初心者すぎて道具が自分に「合う」というのがどういうことかもよくわからない。そんな中で、その時に自分なりに精一杯考えて理解した「据銃の正しい理念」を形にしようと試行錯誤して作ったものだ。この時のフォームは、スタート地点としての懐かしさはあっても、それ自体ができるに至った試行錯誤自体は、あまりにゼロからのものだったために、相対的に評価できないものばかりで、これまでさして省みることなくきた。
ISSFの動画を見なおすようになって、フォームそれ自体が持つ「固有の方向」というものは、もうちょっと確固としていなくてはならないらしい、と気付き、教わった当初からそれは指摘されていたという記憶が掘り起こされ、それをおろそかにしていることを深く反省することになった。「小手先」の要素が沢山入り込んでいたことに、気づかされた。
20年前、肘を大きく絞るように、体の正面に引っ張ることにしたのは、「自然狙点というのがあるんや」「ちゃんと構えられたら、ぱっと覗いたときに、毎回同じ映像が見えるようになるんや」という師匠の言葉を真に受けて、「いい」と判断できたときに、そのように一定の方向を向いているかどうかにこだわって試行錯誤した結果だった。
当時課されていたのは、サイトも載せず、銃口にはカバーもかけて、体の感覚だけに集中して据銃を繰り返すメニューである。何らかの自分の工夫の余地や、変化・上達を感じるとっかかりは、バランスや静止を除けば、「姿勢固有の方向性」くらいしかなかった。肘をどこに置くかで、その辺りの「感じ」は大きく変化する。容易に感じ取れる要素を整えるだけで同じ方を向く、という風にするには、この「引っ張り込む」方法が優れていた。
朱選手がゆっくりと構えてから撃つ様子を見た瞬間に、長い年月を飛び越えて、この時の試行錯誤のことをふいに思い出したのだった。


当時と違って、大雑把に「引っ張り込んだ形」と言っても、その形が含み持つ細かなバリエーションの多彩さや、そのことで周辺におよぶ様々な変化に、いろいろ気づくことがあって、その整理に忙しい。次々生じる、細かい違和感は、その過程で出てくるものだ。
まだまだ、すっきりしないことを痛感して練習は終わった。


D産大の指導をしているOBのMくんから、「Hくんが射撃を辞めるらしいんです、何とかなりませんか」と言われて、びっくりする。Hくんは、数年前には、私を予選で負かして国体の代表になったこともある実力者で、温厚な性格もあって将来を背負ってくれる人材の一人として気に掛けていた。Mくんとは大学が違うものの同期で、ともに大学で射撃と出会い、この学年では関西で最も射撃の好きな二人と言ってよかった。就職して以来、仕事が忙しいらしくて、ここのところ姿を見ていなかったが、落ち着いたらきっとまた競いあうことになるだろう、と思っていた。
Mくんにアドレスと番号を聞いて、メールをしてみた。夜に丁寧な電話がかかってきた。今もやっぱり、射撃が大好きでたまらないHくんだった。なんとか細々と持ち続けながら、機を窺うことはできないの?と尋ねたけれど、詳しく聞くにつれ、ここ数年で手続きに必要な書類が増えたりして維持にかかるコストが跳ね上がり、「雌伏」が昔より容易でなくなっていることを痛感した。ライフステージの中には、射撃どころではない段階があることは、私自身も思い当たる経験があるし、理解できる。「きっと戻ってきます」という力強い声を信じて、電話を切った。


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