こどもと家で過ごす

アブラゼミ



休日の実家頼みは、私たちには助かるのだけれど、子供たちにはそれもまた「ハレ」だったりもして、休息にあまりなっていないのかもな、と反省した。この週末は自宅で過ごす。今日はなんだか相方が特に家事に燃えている。


病み上がりの娘は、まだ本調子ではない。
「虫取りに行こう」と、先日買ったらしい「網」を持ってくるので、それじゃあ、と出かけた。
私自身の子供時代、外遊びの記憶は半分くらいが、網を持ってうろうろ公園を巡る場面だ。お父さんがそういうのが得意でいろいろ教えてくれる、なんていう家庭もなくはなかったけれど(釣りなんかをしていた子たちは、だいたいそんな具合だった)うちはそういうのではなかった。ささやかなことだが、自分のこどもを連れて虫取りに行く、というのは、ちょっとした感慨があった。


最近の道具は、子供向けの廉価なものでも、ずいぶん良い作りになっている。義父が買ってくれたのだと思うけれど、柄の部分と網の部分が取り外せるようになっていて、捕虫用の柔らかいメッシュの網と、魚を掬うのに使う粗いネットのタモ網を付け替えられる。柄自体も軽いスチールでできていて、伸縮できる仕組みだ。「虫かご」と称して娘が出してきたのは、小ぶりの樹脂製のフタ付き水槽だが、取っ手があるのはもちろん、捕まえたものを入れやすいように開口部は大きく、しかも異種の虫をとったときのために、スライドできる仕切り板まで中についていた。


捕まえて持って帰ってきても、飼うところまでは関心がないだろうから「かご」を持っていくのはやめにして、網とお茶を入れた小さなペットボトルだけ持っていった。
いつも出かけている「汽車の公園」で十分だった。セミはたくさん鳴いていたし、ほかにもバッタや美しい模様のカメムシの仲間など、いろいろ見つかった。木の茂みのどこにセミがいるかは、虫取りに夢中になったことのある人にとっては楽勝でわかることなのだけれど、これも一種の経験の賜物みたいなものだ。ほらあそこ、ここ、と指をさしながら探させて、わかったところで捕まえてみた。去年の夏には、おじいちゃんに取ってもらったセミを堂々と持って、私たちを驚かせたものだったが、今日は持ちたがらない。「こわいの?」と尋ねると「前に持ったのは鳴かないセミだった」とか言う。そうだったかな、鳴かなかったかな。「怖い」という感情も成長しているのだろうか。


私が子供だった頃より、何だか虫が無防備で取りやすい気がする。大きくなったからそう思うのだろうか。こんなに低いところで鳴いたりしてたっけ。
私が小さかった頃は、みんながちびっこハンターで、しかもその数も今よりずっとたくさんいたから、めぼしい虫は、小さいこの手の届く範囲では、根こそぎ取っていたからというのはある。


捕まえた虫を一緒に覗き込んでは放す、というのを何度かやっていると、そのうちに近くのプールの開場時間になって、そこへ向かう親子連れが通りかかるようになった。
「プール行きたいね」と言う娘に、心のなかでは同意しながらも、「今日はまだあかんよ。来週一緒に泳げるように、今日はゆっくりしよう」と声をかけて、家に引き揚げた。


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