父のコンサート


もう4月も末になり、ゴールデンウィークも目前なのに、朝晩寒い。
通勤に未だにコットンのマフラーを手放せずにいる。


昨日は午後に、父のコンサートに行ってきた。


高等学校の放送部、大学のグリークラブと、音楽に青春を費やしてきた父は、社会人になってからも、仕事の傍ら個人的にレッスンを受けたり、合唱団にいくつか属しながら、歌い続けてきた。
大学のOBで構成される合唱団や、レッスンをしてもらっている先生の下でのリサイタル、友人の合唱団の応援など、私の幼い頃からの拙い記憶の限りでも、様々な場面が思い浮かぶ。
退職すると、日々の勤めが無くなってぼんやりしてしまう人も少なくないというが、父の場合は、待ってましたとばかりに、それまで仕事でままならなかった、練習や発表会やコンサートにせっせと通い始めた。


父がもう20数年お世話になっている合唱団は、毎年ヨーロッパからソリストを招いて、オーケストラと共に「いずみホール」などの本格的なホールで大曲に挑んできた。
これまで幾度かは、それらのコンサートを聴きに行ったことがあるものの、休日は私もなんだかんだと射撃関係のスケジュールが入ることが多くてなかなか足を運べないことの方が多かった。「またある」と思って、無理には都合をつけることをしなかった、というところもある。


それが今回は、「やめるわけではないが、今回で一区切りになるから」と、改まって誘われた。
合唱仲間というのは、互いにコンサートのチケットを購入しあう相互扶助の習慣が身についているものなのだけれど、母によると、「今回は、これまでの恩返しと思って」とチケット代を取らずに、「ひとつの区切りとして集大成にするから、ぜひ聴きに来て」と、これまでの仲間に声をかけているという。


事情は、聞かずともなんとなくわかる気がした。
合唱団というのは、(団にもよるかもしれないけれど)そうそうどんどんメンバーが更新されていくわけではない。
中心となる先生を慕って集まった人々が、苦楽を共にして成長し、そして「老いて」もゆく。
20数年前に父が、メンバーに加わったときと、主たる顔ぶれはそれほど変わったわけでない。ざくっと言えば、団全体が20歳、歳を取ったわけだ。
テナーで主力の一角を担ってきた父も、もう齢70の声が聞こえつつある。
自らの衰えは、さほどではないようだが、「『団体競技』みたいなものだから、周囲の変化は身に染みる」というようなことは幾度か聞いた。メンバーに名前がありながら、病からステージに上がれない人も少なからずいる。
団の事情が、大きなホールで大曲に挑むのには、だんだん厳しくなってきていて、納得できる出来で臨めるのは、今回あたりが最後になるのではないか、という思いがあるのだろう。


帰ってきた相方とタッチすると、急いで会場に向かった。開演時間ギリギリで飛び込む。
客席は2階までほぼ埋まっていて、盛況だった。今回は、母も妹も、相方の両親も聴きに来てくれていた。
演目はJSバッハの「マグニフィカート」と「ロ短調ミサ曲」だった。


開演に先立ち、大震災を悼んで、客席も含めた全員で「アヴェ・ヴェルム・コルプス(Ave verum corpus)」を歌う。
合唱関係者が主体の客というだけのことはあって、パンフレットに挟まれた楽譜の小さなコピーだけを頼りに、会場全体は歌声で包まれた。
マグニフィカートで華やかに幕が開き、続く主演目のロ短調ミサでは丹念に音が重ねられて、荘厳に、繊細に、祈りの調べが織り上げられた。
やや迫力には欠くけれど、年季を感じさせる行き届いた歌唱で、合唱団の貫禄が保たれたように思った。


相当に過密に続いた練習と、虫垂炎による途中一時のリタイアに、傍でハラハラしていた母は、ひとまず成功に終わったのを見届けてほっとした様子だった。
私も妹も、同じように安堵が先にたった。どうしても身内の発表会というのは、そういうものになるようだ。
久しぶりに、母子3人で少しお茶をしてから、帰途についた。


[fin]