母校の合宿


前夜、仕事後に相方の実家を経て、宿泊地の園部に駆けつけた。
母校の射撃部が、昨日の金曜日から月曜日まで4日間の合宿をしている。


「コーチ」の肩書きを有しながら、一体いつ以来の合宿だろうか。技術指導という面では、本当にすっかり放ったらかしにしてきた。
これには、チームが私のどうしても見に行けない時期に合宿をしている、ということもあった。今回参加できたのは、「何時なら来れますか」と、幹部があらかじめ尋ねてくれて、「3月はどうしても無理」という返答に応えて2月中にセットしてくれたから、ということが大きい。


ほぼ定時で飛び出し、ノンストップで列車を乗り継ぎ、車を駆って20時に何とか到着した。
風呂を終えて集まった部員を前に、20時半から夜の講義となった。


銃刀法の変更による環境の変化は、部員たちも感じ取っているところだが、それをちゃんと位置づけられるように、ここ20年あまりにわたっての、射撃競技全般や部を巡る状況について、まずざっと話す。
自分たちの部がこれまでに起こしてきた大小の不祥事やヒヤリハット事例、他の射撃部が起こした事例などもできる限り挙げて、注意の喚起を行うとともに、現在の状況を相対的に見つめ、自分たちが警察・協会にどのように臨むのがいいのか、について話すように心がけたつもりである。


その後は、すでに長らく使ってきているはずの「てびき」について、改めて各章の執筆意図まで踏み込んで話をした。
練習の実態などを問うにつれ、練習量こそ昔よりずっと増えて、自発的に取り組む傾向が出てきているものの、自分の点数、部内での自らの相対的な位置の外には、全くと言っていいほど目が向いていない状況が明らかになる。
自分たちが毎回出場している関西の学連試合において、自分の出場している種目が、どのくらいの点数で優勝や入賞が争われているか、すら知らない。
ましてや、全日本学生レベルの上位はおろか、日本のトップ選手、世界のトップ選手のこと、今をときめく松田選手のことも、世界選手権のことももちろん知らない。


「最近の学生は内向きだ」と囁かれる状況に、いきなり身近で直面することになって、ちょっと落胆してしまった。
ちょうど20年くらい前、団体成績としては相対的にそれほど今と変わらず、「かなわない」という(私にとってはすこし苛立たしかった)空気もあった。
でも、僕たちは関西の優勝争いが何点くらいで争われているかはもちろん、柳田勝さんをはじめ、当時日本のトップでもあった学生射撃界のてっぺんが、どのくらいのレベルでやっているか、という知識は共有していた。そこと自分たちの違いが、どのくらいのもので、一体何なのかという「問題意識」すら、少なくとも2つ上の私たちの師匠の代では珍しくなかった。
喉元に「何をやっているんだ?」ということばを抱えながら、つい、熱く話してしまった。
あっという間に22時だった。


今振り返ると、20年前の当時も今も、基本的には変わらないのだろうと思う。ちょっと前はもっとひどい状況だったし、今は、Iくんがマメに面倒を見てくれるようになって、意識は相当に高くなっている。こんな話ができる空気があること自体が、実は相当に凄いことである。


しかしまあその時は、やれやれ、と思って話を終えた。
「ふー、今日はかなり疲れたな」、と思っていると、「夜はフォームを見てもらってください、空いている部屋を使っていいという許可をもらっています」、という呼びかけがなされた。
どうなるのだろう、と思ってみていると、「自然の家」ならではの、見渡すほどの広い和室に、道具を持った部員たちがぞろぞろと集まってくる。
結局、そこに部員の殆どが集まって来たので、熱意に押されて、深夜12時ごろまで、あれこれ実演も交えた、姿勢に関するレクチャーをすることになった。


一夜明けた今朝、1・2回生の多くは、10m射場であらためて伏射の練習に取り組んだ。
コーチのIくんだけでなく、この3月に卒業する4回生が3人も参加してくれて、指導を手伝ってくれるので、とてもやりやすかった。


ここまでまじめに射撃に取り組むチームはなかなかないぞ、と驚いた。
結果こそまだ伴っていないけれど、ずいぶん凄いチームになったものだな、と感心するとともに、Iくんに深く感謝した。
「うまくなる」ということへの実感がなかったり、「勝敗に関わりあえる」ということを夢にも思っていない、という意識さえ変われば、それだけで十分に強くなる素地がある、と思った。


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