3歳だから3冊

姉弟



娘が結構理屈を言うようになって、可笑しい。

寝る間際に絵本を読んでもらうのが楽しみの一つなのだが、もう遅くなっていたり、相当に眠そうにしているときなどは、今日は1冊だけにしようか、なんてことになる。
でも、そういわれて素直に1冊だけ選んでくる、なんてことはない。
「これと、これとー、もういっこはこれ。」
と、しらっと3冊を抱えて布団のところに来る。


自分のことについては相当な地獄耳で、大人同士のかなり複雑な文脈の話からも自分に関係のある部分は聞き取ってくるのに、自分に都合の悪いことは、見事にスルーしてみせる。
相方の「1冊って言ったじゃない」には、「3歳になったから3冊なの」などと、牽強付会の理屈を述べて譲らない。


何か買ってくれと駄々をこねるのとは訳が違うから、ここはあっさりこちらが折れて、3冊読んじゃうのだけれど、これに限らず、とっさにあれこれ理屈を並べる力は、相当なものになっている。


最近は、独り言のようにして、仮想の会話をしたり、解説をつけながら物や人形を動かしてままごとのようなことをするようになった。絵を描くときでも、かならず説明を伴うのが特徴だ。
人形には、そのときどきで名前をつけてくれるのだけれど、それが後で絶対思い出せなさそうな名前なのがおかしい。
ちょっとひねってみているのだろうか、「チュック」とか「パッチョン」とか、微妙に普段遣う言葉の中にない音を一生懸命入れてくる。


保育園では、いろいろな口癖や言い回しも覚えてくる。
自分に非があることに気付きながら拗ね倒して、面倒くさいことになっている生徒がよく口にする、「−やし。」という語尾を、娘も使ったりしてるのを聞いて、がっくりくるときがある。
どこで覚えてきたのか、相方の運転に対して「ママは、へったくそやなあ」、と繰り返し言って、すっかり相方の気分を害したり、ご飯の支度をしている私に、「おっそいなあ」を連発して、ちょっと相当にカチンと来させられたり、ということもある。


牧歌的に、あはは、と笑ってばかりもいられない場面がどんどん増えてくるのだろう。
親として、これはOKするところか、ちゃんと締めるところなのか、相方との役割的なものも含めて、判断の難しい場面もきっと出てくる。
そういうときに機能する「大人の側の基準」には、家庭内の文化や個人的な経験を通じて、生い立ちそのものが育んできたものだけに、おそらく重みを伴った「相違」が含まれている。相方と私やふたつの実家の間に横たわる、いろいろな「違い」が、子どもたちを巡って際立つ機会も巡ってくるに違いない。


自分の中に、「余力」のようなものを保ってやっていくことが大事なんだろうな、と思う。


[fin]