創設者の記憶


私が長く属しているクラブチームの創設者、Tさんが意識不明の状況になっている、とクラブ内のメーリングリストで知る。


クラブの創設は私の生まれたころのことで、当時の(今では1クラブチームにそんなことが可能だとは到底思えないほどの)興隆ぶりは、私にとっては伝説でしかないが、チーム名やTさんの名前を口にした時に、ある年代以上の射撃人の表情に現れるかすかな畏怖や、表向きにあまり堂々と語られず敬して遠ざけられる様に、「ただごとではなかった」らしいことを読んできた。


Tさんとは、1度だけお会いした。
私を見せたいのだ、とSさんが引っ張り出してきてくださって、撃っているところを見ていただいた。
小柄で白髪、柳のような軽やかでしなやかな立ち姿で、柔和に見えて鋭い眼光をたたえておられた。
これと見込んだら、自宅で午前2時でも3時でもトレーニングに連日とことん付き合って強靭な射手を育て上げる「鬼」だと伝え聞いていたが、なるほどこのような鬼であったか、と空恐ろしく感じた。


その時は、1度ちらと見てもらえたら、ということだけだったし、もう射撃には深く関わらない、とはっきりおっしゃっていたいたこともあり、良くも悪くも「道場入りが懸かる」という状況ではなかったのだけれど、すこし緊張した。
静かに観察されて、2つだけ指摘された。
いずれも、初めて指摘されたポイントであったが、しかし、その当時の私の感覚の中にあった現象を見事に言い当てられていた。


その当時すでにそこそこの年数撃ってきていて、いろいろな人から受けた助言はそれなりに役立てては来ていたけれど、それはあくまでも自分で技術について考える「材料」としてだった。
射撃という「静」のスポーツでは、後ろにいる人から今まさにやっているパフォーマンス自体について「なるほど」と手を打ちたくなるような指摘、というのはできないものなのだろう、と思っていた。だからその指摘には、その内容以上に、ちゃんとした目のある人は、一目で見抜くことができるものなのだ、そういう風にわかるものなのだ、ということに驚いた。
「コーチ」というものが、制度上のものでなく、実質的なものとして「ある」ことを知った初めての経験だった。


言葉通りではないけれど、「やるべきことをすれば、君はちゃんと一流になれるだろう」、ということをその時の別れ際にTさんは私に静かに告げ、「なにかあったらここに電話しなさい」と電話番号も教えてくださった。
Tさんの言う「やるべきこと」が、並大抵でないことは伝え聞く限りでも容易に想像できた。
その後、Tさんに連絡を取ることは二度となかった。
「やるべきこと」を私はできていない。だからこの程度だ。
でも、そう言っていただけたことは、その後も宝物のような「支え」としてあり、Tさんには歯がゆいだろうけれど、しかし誰よりも細々としつこい探求を続ける力になっている。
そして何より、一度きりの出会いは、コーチというものがどういう者であらなければならないか、について知る「原初」ともいえる体験となった。


今はただ、無事を祈るばかりである。


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