じっくり練習


来週に選抜クラブ対抗戦を控え、50mを練習する機会はここしかない。


昨日は、保育園の「協力日」ということもあって娘は園に行かなかったので、相方と娘は一足先に実家へ行っており、昨晩から家はひっそりとしている。
能勢では、学連試合(新人戦)が行われており、そちらに顔を出さなければならない義理も少なからずあるのだが、そちらは部員たちに任せて大津へ向かった。


割合早くに着いたのだけれど、水口の射撃部員とOBがもうたくさん来ていて、練習の準備を進めていた。


50mを紙の標的で撃つのは久しぶりである。
早速立射からメニューに沿って練習する。


立射では、国体後に修正した、バランスを振り分けるための「たわみ」を極力除いて、シンプルに体幹の直立を基調に組み立てた立ち方を試す。これは、構造理論的なものは若干目をつぶっても、不確定になったり再現性が落ちたりする要素ともなる部分を少なくしてみる、という路線の方法で、技術的にリセットをかけるような狙いのあるものだ。
少なくとも今日は、そのいい面が出た。エアライフルと変わらない感覚で、60発以上にわたる練習中一貫して安定して構えられたことは、これまであまりなかったことである。弾着も非常に安定しており、得点にして90点代後半相当を立て続けに出せている内容だった。


次の膝射は、不確定な要素をまだたくさん抱えていることが、あらためてわかってきたところなので、どのくらいの「オプション」が隠れているのか確かめるようにしながら練習を進めた。まずはぼんやりと重なり合ったような輪郭を、それぞれに少しずつ把握できる形に引き剥がしながら、伴う現象の観察とつき合わせて、正確な捉え方がどれか探っていくような作業である。
外見的にはあまり変わらないと思うのだけれど、やっている本人の身体の中では相当にドラスティックにいろいろな要素の組み換えを試している。1回の練習で試せることやわかることは限られているけれど、前進を始めたという手応えは感じることのできる練習だった。


最後に練習した伏射は、さらっと確かめる程度で終わろう、と思っていたのだけれど、今ひとつしっくり来ず、ちょっと嫌な感じで終わった。


各姿勢でメニューを立てながら、それに沿って200発近く撃った。こんな本格的な練習は、久しぶりである。
必死にする練習も懐かしいものなら、古い射場で静かに紙の標的を撃つというのもまた懐かしさを呼び起こすもので、学生時代に八瀬にせっせと通っていたころと同じ空気が自分を包んでいるような錯覚を、ふと覚えた。


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