ディープ・ピープル


一昨日の夜遅く、NHKでやっていた「ディープ・ピープル」という番組が面白かった。


ある分野の先端を行く、または行った人たち3人を集めて、話者には「一般の視聴者にわかるかどうか」などの心配を抜きに対談をさせ、その映像を、関根勤さんと安部みちこアナウンサーで(その「ディープ」度合いを楽しみながら)、面白さが一般視聴者に接続するものになるよう解説する、という番組である。


せっかくのスペシャリストをテレビに出しても、視聴者を気遣って、話の内容が「安全」・「平易」な、その人でなくても話せるようなところに落ち着いてしまうことがよくある。全くもったいない話で、この番組はその辺をうまくわかった作りである。どの辺りに落ち着くか、は関根さん次第であるけれど、今回偶々見た「水泳」では、その辺りがばっちりと合っていた。


今回のゲストは、背泳で世界最高峰の戦いに臨んできた3世代、鈴木大地中村真衣古賀淳也の三氏。
1988年ソウル五輪で、日本水泳界に本当に久しぶりの金メダルをもたらした鈴木氏、2000年シドニー五輪で、実力は間違いなく当時第一人者だったが惜しくも銀メダルとなった中村氏、昨年の世界選手権で堂々の金メダルを獲得し、今世界のトップに名を連ねる古賀選手。


泳法について、鈴木大地の時代と中村真衣の頃以降とは随分と変わっていて、後から見ると、どうしてこんなにも不合理で観念的な泳法が頑なに守られ、練習されてきたのかと思ってしまうくらいの違いがある。
鈴木大地氏は、「人とは違うことをしないと勝てない」と、バサロの大胆な採用など、型破りな取り組みが成功に結びついた選手である。
それでもなお、教えられた「泳法」をとにかく訓練する、ということが「練習」においては第一で、そこからコーチも選手もなかなか自由にはなれないこと、試行錯誤できる幅というのは振り返ってみると極めて狭いこと、がよくわかる。話している3人はそのようなことは全く意図せずに話していたと思うけれど、研究機関なんかも擁するメジャースポーツのナショナルチームクラスの「科学的」な取り組み、といえども(いや、そうだから一層そうなのかもしれないが)、根本的なところから疑ってかかってあれこれやる、ということは難しく、反復量や強度の積み重ねで数値的向上を積み重ねることに終始してしまう、ということが伺えた。


私は番組を見ながら、やはり以前テレビの中で(報道ステーションだった)紹介されていたバドミントンの田児賢一という選手のことがふと頭に浮かんだ(松岡修造さんのコーナーで紹介されるアスリートには、はっとさせられることが結構よくある)。
この偉大な3人がバトンタッチしながら20数年の間に辿ってきたくらいの根本的な試行錯誤を、独りでもっとやっているのではないか、と思わせる「特異な」選手だ。日本最高峰の選手だった両親の影響で幼少からバドミントンに親しみつつも「教わる」ことはなく、あれこれ考えながら、(中には失笑を買うような試行錯誤も含めて)、こうでもいけないか、ああでもいけるのではないか、と試しては進んでゆく姿は凄みがあり、しかし、遊び心というか、なんでもやってみてやろうという、いろいろなことを面白がれる柔軟さが伴っている。その結果たどり着いた技術が「いわゆる基本」と根本から全く異なっていていながら、世界最高峰に肉薄して、さらに先を窺っている。
下手な真似は、独善的な我流に終わるかもしれないが、彼のような存在が育むものが、いわゆる「本流」にうまく生かされたり、(日本だけではないのかも知れないが)「オーソリティ」が技術的に「保守的」になってしまうのを防ぐ上で、その取り組みの姿勢に学んだりすることが必要なんじゃないか、というようなことをぼんやりと考える。
どこかで自分は、大きな射程で全体像を捉える努力をすることとセットにして、いわゆる型にはまらない模索をしたいと思っていて、どこか田児くんに姿を重ねているところがある。


古賀選手が、宇城憲治氏に師事していて、驚異的なスタートでの反射速度にそれが生かされている、という話はとても興味深かった。
(意識的に)集中し感覚を研ぎ澄ますことと、その中で導き出そうとする動作が「意識的」になってしまうこととは別だということを、確認できたのが私には収穫だった。古賀くんは「集中を高めると音波の最初の波が耳に入ってくるのを逃さずに聞き取ることができて、反応することができるのだ」、という内容のことを言っていたのだが、「聞き取ろう」と集中を高める「強い意志」が、その後の一連の動作への「意識」の介入へとつながらず、研ぎ澄まされた状態のまま「下意識に委ねて行う」ことへとつなげることが可能なのだ、とわかったことは(何をいまさら、なのかもしれないけれど)、私にとって「あ、そうか」とはっとすることだった。
要所で意識を介在させないようにするために、なんとなく意識の働きを遠慮がちにさせてしまって、それで失敗してしまう、というようなことを、私はこれまで結構やってきている。程よいところを探る「さじ加減」ではなく、それぞれを明快に発揮させる、というかたちの技術発揮の方法を採っていないと、ここぞというところでは安定して使えないのだろうということを、あらためて感じた。


偶々観た番組で、随分といろいろなことを思い出したり考えたりさせてもらった。


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