第二種目

10mS60M



今日は第2種目。立射競技である。
出番が14時過ぎと極端に遅い。
昼に会場に入ることにして、朝は宿舎近くの体操競技を見に行くことにする。


昨日に続き、今日も雨。傘を差してちょっと散歩をした後、体操会場に足を踏み入れた。
近隣の小学校が、団体で見学に訪れていて、会場前で協会の人から入場前の注意を聞いている。
今日は皇室の観覧があるとかで、セキュリティーチェックが物々しい。射撃競技と異なって、集客力のある競技とあって会場周辺の物売りも比べ物にならないほど賑やかだ。
体操競技を生で観るのは初めてである。アリーナに入ってみると、テレビでは見たことのある競技会場が見渡せた。
今日は成年の決勝らしく、男女同時に競技が進行する。1組6府県の6組編成のようだ。10時開始のところを9時半過ぎに入り、会場の用意や公式練習の様子から、1組目のはじめ1時間程度観戦した。


私は体操に関しては、これまで割とよくオリンピックの中継などを観てきたつもりだったけれど、「女子の床種目は音楽があって男子のにはない」なんてことに改めて気がついた程度の頼りない観客である。実際に見てみて、チームのメンバー3-4人全員が5つから6つの種目(男子は床・吊り輪・鉄棒・跳馬あん馬・平行棒、女子は床・平均台段違い平行棒跳馬)全てをしなければならない、というのは大変なことだと思った。私の座ったところは女子の床・跳馬、男子の平行棒がよく見えるところだったのだけれど、選手あるいはチームの、種目ごとの得意・不得意が素人目にもすぐわかってしまう。
観衆の目に晒されながら、ものすごい数の演技を次々採点してゆく審判も大変である。役割の決まった10人程度が各種目に充てられているが、そこへ補助の学生も加わって、整然とした連携を保ちつつ、得点は淡々と発表されてゆく。
初めて観る競技から触発されることは多かった。ごく一部しか観戦できなかったが、観た中では広島の女子チームの床演技が、のびのびと楽しそうで、おそらく練習どおりに出来たであろうと思われる完成された美しいパフォーマンスだった。ああでなくっちゃなあ、と思った。自分の射撃におけるパフォーマンスなら、この感じは、どんな状態にあたるのだろうか、などとぼんやり考えたりした。


宿を経て、昼過ぎには会場に入った。伏射のときよりは落ち着いて準備を進める。
私の射座の周囲はなぜか、明らかに伏射を中心に撃っていると思われる、かなり年配の射手ばかりだった。高校生なんかから見たら、私も「そちら」にグルーピングされているのかしら、と思ったりした。


試合が始まってみると、公式練習のときと同じ手応えがあって、据銃の安定感は抜群に良かった。そんなことを感じてスタートできる試合はそう多くはないから、「調子」という面でいえば最高に近かったと思う。
しかしこの半年の、不調の重い感触や記憶が染み付いていた身体や頭には、そんな状態は刺激的過ぎたようだ。どうも据銃以外の技術が、うまく噛み合わない。せっかくの「静止」を、下意識が信用して素直に受け取ってくれないような感じだった。1シリーズ目は、非常に歯がゆい96となった。2シリーズ目からは、自分の意識下の部分を説き伏せるように気持ちを掻き立て、パフォーマンスにおいては勇気を奮い、目をつぶって身を投げ出すような具合で撃ってみる。すると、ようやく自動の歯車が動き出したようで、トリガーが反応を始めた。2シリーズ、3シリーズと99,99が続いた。


この大会までにちゃんと実績が出ていて、本当に落ち着いて試合が出来ていたら、「1シリーズの躓きはご愛嬌、(ちょっと起動にエネルギーがかかって疲れ気味とはいえ)ここからは本領発揮」で、すっと最後までいけただろう、と思う。
しかし、そうは行かなかった。今度は、この「ちゃんと下意識が機能している状態」が維持できるかどうか、に不安を感じはじめた。こういう風に「満射に近いパフォーマンス」が続いていることを、「目指している通りの当たり前の状況」と受け取らずに、「千載一遇のチャンス」のように受け取ってしまう心が、どうしようもなく湧いて、「浮き足立って」しまうのだ。
つくづく「よくない体験」の爪痕というのは深い。


意識が受け取ることのできる、表面上の「状態」を維持することに注意が行ってしまって、実際には下意識がきちんと機能していない変質したパフォーマンスになってゆく。
変化にはすぐ気がついたものの、「気合」と「身を投げ出す」のにエネルギーを使って少し疲れたこともあり、あれこれと修正を試みてもどうにもならず、後半はずるずると失点を重ねてしまった。
その修正のさなか、構え直そうとして不用意にトリガーに指がかかってしまった、5シリーズ目の6.0点が、結果的にとどめを差した。4シリーズ目の悪戦苦闘が実ってようやく再び10点が続き、今度こそ最後まで維持できそうに思った矢先だった。このシリーズをなんとか95に纏めたものの、最終6シリーズもいまひとつ冴えず、終わってみれば尻つぼみを絵に描いたような579点。8位以内も逃す、まさかの点数となってしまった。残念である。チームにも、点数の上積みができなくて申し訳ないことをした。


「試合における失敗の経験、というのは高くつく」、「小さな大会でも、勝てるレベルまで自分が達してから出場すべきである」、「勝てたら、次のレベルの試合を目標に再びトレーニングを積み、その準備が出来てからその試合に出る。準備が整うまでは出場してはいけない」。
そんなことをラニー・バッシャムが書いていたなあ、とぼんやりと思った。読んだのは遠い昔、大学で射撃を始めたころのことである。
高校から射撃をしている選手が上位に何人もいて、初心者の自分には到底すぐには勝てそうにない、と感じていた学生の大会を前に、「それはそうかもしれないけれど、そんなこと言われてもなあ」、という一説だったから覚えている。
言わんとすることはわかったつもりでいたけれど、身に沁みてその意味を理解したのは、今回が初めてかもしれない。


一旦、ランキングや大きな試合の結果についての一喜一憂から離れて、しっかり練習と小さな試合でのテストを積み重ねる、ということをしたい。
この数年で積み上げ、温めている「技術」がいかほどかを知るためにも、それが発揮できる「状態」について、わかるようになりたい、と思った。


[fin]