ピアノをめぐって


明日明後日とブロック予選で家を空けるため、娘と相方は保育園帰りにそのまま実家に行ってしまった。


こんな機会にと、街中へ弾を買いに行った帰り、信号が間悪く赤になったので、ちょっと近くのブックオフにふらっと入った。
何の気なしに棚を一周して帰ろうと思ったら、ハイドシェックのベートーベンピアノソナタがあったので思わず購入してしまった。


宇野功芳という、正統派とはいえないけれど熱くてぶれない、人気の音楽評論家がいらっしゃる。
私の場合は、ジャズの場合の後藤雅洋氏といい、文字から音楽に入ることが多い。
クラシックについては、大学生時代に、この宇野さんの本とぶつかって、他のクラシック好きの友人とCDをやりとりしたりして、本に紹介されている作品をいくつか聴き、なるほどねー、と感心した。
宇野氏ならではの、熱い推薦アーティストの代表格が、今回私が思わず買ったエリック・ハイドシェックというピアニストである。


ピアノというのは、鍵盤を押してハンマーを動かし、弦を叩いて音を出す仕組みの楽器である。演奏者は鍵盤の叩き方でその音を操る。
私は詳しくないので、その技法についてはよくわからない。ただ、同じ楽曲でもCDによって、録音の加減なのか、それとも本当にタッチの違いなのか、目が覚めるような鮮やかで煌びやかな音の演奏、というのがある。
宇野さんの本に沿って何枚か聴いたときに「なるほどねー」となったのは、ハイドシェックモーツァルトを弾いたディスクが、際立ってそういうものだった、ということがある。


今は、音楽を聴く=iPodで聴く、となっているから、家に帰って読み込ませるまでは聴くことができない。
久しぶりにクラシックのディスクを買った興奮から、つい聴きたくなって、iPodに入っているバックハウスの弾く同じベートーベンのソナタを聴いてみる。
ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ全集


これは音楽芸術において世界遺産ともいわれるくらいに、不動の評価がある録音である。
ベートーベンのピアノソナタは、楽曲自体がものすごく分厚くて、ピアノ1台で紡ぎだしているとは思えない、多層的に響きあう音楽なので、聴きながら背筋が伸び、居ずまいを正してしまうようなところがある。
バックハウスの演奏が、類するもの絶無のものかどうか、という評価については、私にはよくわからない。でも、これに聴きなれていて、他の演奏者のを聞くと、「あれ、こんなにするっと流れてしまうものだったっけ」、と拍子抜けすることがあるから、「そういうものである」ことはわかる。


今日、偶々聴いていた6番の4楽章では、打鍵のときの爪の音が聞こえる。
その爪が鍵盤を叩く音で、そういう「わかる人にはわかる」というような、しかし歴然とした違いも、指と鍵盤の接触からすべて生じているのだ、ということをふと思った。


私も時期だけは長くピアノを習わせてもらった。
大してうまくならなかったが、子どもの手習いのレベルでも、ただ正しい鍵盤を押すだけではダメだ、ということはすぐに教わる。どんな楽器でもそうだけれど、「演奏」はその先にある。
もちろん強弱や速度だけでもない。
そこにこそ正に、演奏を「聴きたい」と思わせる魅力の本源があって、ここまで磐石の評価があるバックハウスの演奏を一揃い持っているのに、ハイドシェックはどんな音だろうか、どんな演奏だろうか、と同じ演目のディスクを買わせてしまう「力」にもなるのだ。


「技巧」というのは、本来そういうレベルのものだ、と思う。
スイッチのON・OFFに還元されるようなモノやコトが当たり前になって、そうして、それしか扱えない人ばかりになって、さらには、そちらの方に「技術」がさらに擦り寄る。
そういうことが繰り返されて、ちょっとずつそういうものが見えなくなっている。


射撃も同じなんじゃないかなあ、とまた、ふと思う。
10点でOK、600点でOK、じゃあない。
それは、「より深い10点」、なんてつまらないことを言っているのではなく、パフォーマンスに籠めることのできるものは、様々に、そして限りなくある、ということである。
「点数」や「弾着」は、それらにもちろん包括されているけれど、他のスポーツや譬えに出した「芸術」よりも、わかりやすい、浅いところにある「識別ライン」みたいな存在である(私は、そう思っている)。
そこを越えた越えないだけで、相当に一喜一憂できてしまうので、間口が広い。
それが射撃のいいところ、である。


ピアノは、正しく鍵盤がたたけて、その楽譜の指示通りに強弱や速度をつけることができて、やっとそこから、曲想の再現や構築作業がはじまる。
そして1曲全体が、演奏者にとって「大きな必然的な流れ」となって姿を現して、「わかった」と感じられたときにやっと「演奏できた」、と言うに足るひとつの「完成」に至る。


スポーツをしたり見たりする楽しみにも、そのような面白さが秘められている。
点数や順位はもちろん大事であるが、それとは異なる達成、前進、深化を強い動機とするとき、これまでに見えていたものを包括しながら、全く異なる風景がそこに広がっている。


言い訳がましく取る人もあるだろうし、手軽に話せるようなことでもないので、あまり触れないところであるが、最近の動機は明らかにこの「風景」にある。射撃には、この風景がかなり手つかずのまま広がっている気がしている。


「CDを買う」という思わぬきっかけで、ついぼんやりと思いを巡らせてしまったけれど、私は、自分のする「射撃」というスポーツを通じて、そんなことを思っている。


[fin]