中山寺

中山寺のハスと



ふたりめの子の安産祈願に出かけた。


娘のときには、帯解寺に帯をもらいに行った。
縁起物は、気持ちのものだが、それこそ大昔には最優先の「大事」で、今でも(間際になるまで忘れがちだけれど)ままならない「自然と人とのやりとりそのもの」であることを思い出す儀式として、意味のあるものだと思っている。


どうしたって二人目以降の子は、親の接し方に失敗や不安が少ないかわりに、新鮮さを欠くところがあるし、一人目のように周囲から注意関心を集める機会も少ない、という宿命がある。
生まれてくる前のところから、「お姉ちゃんのときは、ちゃんと祈願したらしいけど、私の時にはそういうことはしなかったのね」となるのもあんまりだ。


しかし、こういうことを言ってもいいかどうか憚られるところがあるけれど、「安産祈願」というのは、これほど容易に不安に付け込まれることはちょっとない、というようなところがあって、仕組み的にも金額的にも雰囲気的にも、「えっ」と眉をひそめたくなる、つっこみどころに満ちている。
次はひとまず、前回お世話になった帯解寺以外で祈願してみよう、と中山寺に参ることにした。


今回は義父がついて来てくれた。娘も一緒である。


相方の実家から出かけたのだが、長いこと履いてない古いサンダルを靴箱から引っ張り出してきたらしく、早々にゴムがぼろぼろと剥がれて、道半ばにして崩壊。相方が歩けなくなってしまった。
まだ、朝が早くて靴屋も開いておらず、仕方なくコンビニで黒いビニールテープを買って、ぐるぐると応急補修する。
なんだか見た目にすごいことになったが、歩けるようにはなったのでそのまま寺に向かった。


私は初めて来たが、境内は広々としていて、あちらこちらに集め置かれた水鉢に咲く蓮の花々が美しい。
昨日が「戌の日」だったためか、安産の祈祷を受ける人はわずかに2人だった。
同伴者である、私や義父は後ろの席で見守ることになる。膝の上の娘は、相方のほうに行きたがったり、退屈そうだったりしたが、祭壇や祭器、衣装、祈祷のしぐさなどに、いろいろ説明をつけてお話をして、最後まで待つことができた。


祈祷の後、腹帯をもらうのだけれど、これはお礼参りに来た人が新しい布を納め、それを仕立てているのだそうだ。
参道にさらしを売っている店があったのは、そういうことだったのか。
無事の出産への「感謝」を次の人に受け継いでいく、というのがこういうわかりやすい「物」の形で示されるのは、なかなかインパクトがある。そして、絶妙にお礼参りを動機付けてもいる。無事に元気に、お腹のこの子も出てきて、ここへ再びお参りできるようになってほしいと思う。


納めた子の性別が帯には書かれているのだが、これが女の子だと、次は男の子、男の子だと、次は女の子が生まれる、ということが参拝した人たちの間でまことしやかに噂されているらしい。
「そのように言われているようですが、そういうことではありません」と、お礼参りと帯の布の説明の中でわざわざお坊さんが言うくらいには、流布している。


帰って開けてみると、今回いただいた帯の布を納めたのは、女の子だった。
こういうものは普通、何気なく開けて、お札を掲げたらおしまい、となりがちなところだが、こういう話があるだけで、ちょっとどきどきすることができる。
そんなちょっとした「知恵」のおかげで、楽しみを覚えながら、お腹の子にあらためて思いをはせる。


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