スポーツを「選ぶ」としたら


大相撲の不祥事が、底なしの様相を見せている。
場所を開くか開かないか、賜杯を受けるか受けないか、というようなことも問題なのだろうけれど、親の視点から「そのスポーツに子どもを預けられるか否か」、というような辺りまで引いて見てみたときに、これはかなり致命的な、ひどい状況だと思う。


遊びの延長として、子供同士で自然にスポーツに親しむ、ということは少なくなって、「スポーツとの出会い」に親などが関わる、というケースが昔より多くなってきているように思う。
成長の手応えを感じるにつれて、「子どもがしたいこと」を見守ることになってゆくのだろうけれど、子どもをスポーツの世界と「どんな風に出会わせるか」、というのは結構考えさせられるところがある。


相方は、バレーボールを中高とやってきたのだけれど、当時を振り返って、子ども時代には見えなかったいろいろな問題点が、今になるといろいろわかる、なんて話をときどきする。
指導者はもちろん直接に活動の状況を左右する存在であるが、自分には関わりがないと思っていた「大人の事情」、例えばそのスポーツを統括する上部組織の状況、なんていうのも、子どもだった私たちに影を落としていたんだな、とわかってきたりする。


車で通りかかるグラウンドで、ユニフォーム姿の子どもたちが野球をしているのをときどき見かけるが、繊細な小さな子たちの、人生における世界観を左右するであろう重大な役割を任せるに足る、いい指導者に巡りあえる可能性は、どのくらいだろうか、とか考えてしまう。


もちろん自分がやっている射撃についても思うところはあるけれど、これについては何というか、世の中全体に、寛容でゆったりした空気が流れて、いろんな人がたくさん関わるようにならないと、硬直した貧しいものに堕していってしまうなあ、というようなことを常々考えさせられている。
「気を張って舵を取り、常に注意を怠らない」という風にしていないと、変な方向に振れてしまうおそれがある、という感じなのが、もうすでにどこかおかしいのだ。
関わる人々に「豊かな多様性」が担保されていれば、「総和」は普通、「ぼちぼち常識的」なところに落ち着くものだ。


関わる人の数が少なくて偏りが出ているのか、そもそも「人々」自体の多様性が失われていて、数を増やしてもやっぱりダメなのか。
射撃については前者を前提に工夫をするしかないし、私の仕事については後者において働きかけるものでなければならないと思っている。


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