時間の貯金

時間の貯金箱?



友人の子どもを、ブログやはがきの写真で久しぶりに見かけることがあると、数ヶ月単位で、あっ、と驚くほど大きくなっていて、子供というのは、「容赦なく」成長するものだなあ、と思わされる。


どの家庭も、その駆動力に押されて、親はその役割を習得し、またそれに合わせてどんどん生活を変えていく。
関わる世間も変わっていくし、それまで長く関わっていたはずの「世の中」や「仕事」なんかに対するとらえ方や考え方もどんどん変わる。
その変化は、親となった私たちの見かけにも及ぶようだ。


この間の週末、相方は同窓会があって、久しぶりに大学時代の友人にたくさん会ったのだそうだが、相方は「感じが変わっていてわからなかった」と、旧友に散々言われたのだそうだ。
偶然、家でそのとき私は写真のデータを整理していて、わずか3年弱前の新婚旅行のデータを片づけながら、「あらら、ずいぶんお兄ちゃん・お姉ちゃん然としてるなあ」と自分たちの顔にびっくりしていた。
別に太ったりやせたりしたわけでもなく、禿げたり白髪になったりしたわけでもないのだが、わからないほどに変わっているのだ。


老けたか…、と嘆くのは簡単だけれど、「これは、まあ、あれだな、『親の顔』になったってことじゃないか」と、二人で積極的に受け止めた。


「親の顔になる」なんて表現は、どんな文脈でかはすっかり忘れてしまったが、小さい頃からよく耳にした。
聞いて、子供心にも「まあ誰かのお母ちゃんと、結婚してないお姉ちゃんっていうのは、なんでか間違えないよな」という風に同意していたけれど、その理由が、本当に「顔」なのか、服装や見かける状況から推測できるからなのかは、ちょっとわからないと思っていた。


このごろは、ギャルの姿そのままに母親をするのが珍しいことでもない。
その行動や服装は、年配の人たちが「親になりきれてない」なんて眉をひそめるところだったりするが、そういうことは抜きにして、ギャルのような格好をしていても、あ、これは母親やってるな、とすぐにわかることがある。
そうかと思うと、PTAの集まりなど「親」ばかりの中で、服装は違和感のないそれらしいものなのに、あれ?と思う顔もある。


どういうところで、そういうのを感じているのかはうまく説明できない。
そういう顔の変化の有無と、その人の「親ぶり」との相関に何か思うところがあるわけでもないので、それだけの話なのだが、「窶れた」とか「太った」とかいうのでなく、自分たちの顔がこの数年の間に、何か変わっているのだとすれば、そりゃあ、まあその類の変化なのだろう。
悪い話ではない。


しかもこのごろは、年を取ること、変化すること、「衰え」だと思っていたことにさえ、抵抗感がなくなってきている気がする。
このことも「親」になったことと関係が深い。
時間に対する感覚が大きく変わったのだ。


独身のときは、日々が過ぎゆくことを、人生の残り時間がどんどん減っていく焦燥感として受け止めることが、どこか心理的な基調となっていたが、子供ができるとそれが薄くなった。
私から失われていこうとする時間を、子どもが巻き取っていってくれて、それらが失われずに形になってゆくように感じる。
ただ時間が過ぎてゆくことに、積極的な意味を感じてしまうほどだ。


子どもは、時間の貯金箱みたいなものだ。
わたしたちもまた、そうやって親たちの時間をたくさん巻き取って成長してきたのだろう。


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