合宿終わる

合宿を終えて



10mも50mも9時半から記録会。


10mを学連のKくん一人に射場長と審査を任せ、残りは全員50mに張り付く。こんなことが出来るのは自動採点機の恩恵といえる。
50mの射場長はS君が務め、コーチ陣と残りのスタッフは監的壕で、下りてくる標的を片っ端から審査する一方で、標的トラブルの対応に走り回る。
この合宿は、大会の端切れ標的をごっそり投入して行っているので、試合用に的を組むのも大変だったのだが、撃っている最中に切れたりするトラブルも多い。


パスッ、パスッと的を射抜く音を聞きながら、上を時々見上げるのだが、撃っている時と、ただこうしてみている時で、同じものがどうしてこんなにも違った印象になるものか、と改めて思う。
監的からぼんやり見ていると、真ん中に当たることがごく当たり前で簡単なことに見えるし、そこを外れることがとっても愚かしいことに映る。
自らが撃たなくなって、指導だけするようになると、この感覚が優勢になって、感覚を選手と共有することが難しくなるであろうと想像される。
不気味なことだと思う。


競技をしている者が見ても、射手が標的に面したときの印象にたどり着くには、えいっと想像力を働かせる努力が要るくらいであるから、観る競技として、ライフル射撃がいまひとつ面白みを欠くのは、この埋めがたい印象のギャップに根本的な原因があるのだろう、なんてこともぼんやりと思う。


ナショナルチームにも入っているNさんは、さすがという射撃を見せた。
監的側で久しぶりに射撃を見ることで、「ああ、こんなものだよねえ」、と「普通に」見られるくらいの弾着であれば、「ナショナルチームクラス」ということなんだなあ、ということを改めて思った。
衛星放送で昼過ぎくらいに観る相撲の取り組みが、幕内のそれとはまったく異なるスポーツのように見えて、滑稽さを覚えたりすることとよく似ている、と思う。
ある達成を果たしてから、やっと勝負が始まるのだけれど、そこまででぐちゃぐちゃと目先の勝敗に一喜一憂している者が何と多いことか。


選りすぐりのスタッフであるから、実にスムーズに記録会は運営され、昼食前に成績発表まであっさりと終わった。
何人かの気になる選手に、ちょっとしたアドバイスをしたら、後片付けとなった。


最後でありながら、今後の「スタート」という位置づけの合宿。
詰め込めるだけ詰め込んで、挑発し、考えさせ、さんざん書かせることになった。
将来、彼らのうち一体何人くらいが、この合宿を何かの「契機だった」として思い出してくれるだろうか。


[fin]