ツールとしての音楽


毎日、本を読むときを除くといつも、通勤の車内ではi-Podで音楽を聴いている。


本を読むとき以外は、ラップトップを開いてこれを書いているか、バイオフィードバック・プログラムを走らせているかのどちらかなので、音楽だけを聴いていることは、ほとんどない。


メンタルのことを改めて考えるようになって、音楽を積極的に「ツール」として捉えるようになった。
試合の日にあれこれやりだしたことは、たまに書いている通りだ。
試合でやるということは、万事に通じるということである。ある仕事に向けて、とか、もっと素朴に、新しく1日を始めるに当たって、とか。


モードを切り替える、という意味で、「サイキングアップ」というのはわかりやすく、取っ掛かりやすい。
集中が必要だったり、プレッシャーに対してどうしても打ち勝たねばならない状況は(今の私の力量では)、ぐっと時間をかけて整えて臨む、という風にすることは現実的に思えない。
ばばっと切り替えることを習慣にして、その切り替え方に工夫を凝らして、集中したプレッシャーに強い状態にポンと入る方が、現実的で「使えそう」に感じる。


レンタルショップや、中古メディアを扱う店に行けば、オムニバスの棚にユーロビートやダンスミュージックのディスクが容易に見つかる。
敢えて買ったり借りたりすることは、これまで全くなかったが、「使ってみよう」と、90年代のユーロビートのタイトルを2枚手に入れた。
スーパー・ユーロビート Vol.50
ザ・ベスト・オブ・ノンストップ・スーパー・ユーロビート 1998


ぐっと気分を高め、そのまま「変化しない」音楽は、試しに聴きながら走ってみると、大変な威力がある。
(こんなことに改めて「気づく」こと自体が、これまで何をしてきたんだ、ということでもあるのだけれど。)
呼吸や心拍のコヒーレンシーなんかは、本来落ち着いた音楽で取り組むものなのかな、とも思うが、これもこういう音楽でやってしまう。こういう音楽を必要とする場面で、出来るようにならなければ意味がないように思うからだ。
すると、文章を書くのもこういう音楽で悪くない、いやむしろ聴きながらする「効果」は高いのではないか、ということになってきた。


なんだか、音楽の趣味としては、とってもつまんない奴になってしまった気がするが、気がつくと、プレイリストにまとめた、この手の音楽ばっかり聴いているようなことになっている。
まあ、これまでだってつねに何かをしながら聴いていたわけで、その「していること」の方から着目すれば、音楽自体を楽しんでいたというよりも、ずっとツールとして音楽を「使っていた」だけとも言える。


国体のリハーサル大会で埼玉県を訪れた時だったか、地元の人たちが秩父屋台囃子を披露して歓迎してくださった。
山道を重い荷物を運び上げる時に、不可欠なツールとしてこの太鼓があるのだ、という保存会の代表と思われる方の話が大変印象的だった。
どうすれば、重荷を引き揚げる男たちが、持続して最大の力を発揮し続けられるか、荷運びの状況にも応じたエッセンスがつまっている、と。
この太鼓がなければ、そこまでの力は絶対に出せない、といいきれるだけの力が、この太鼓の音やリズム敲き方の中にはあり、それを受け継いでいるのだ、という内容の説明であった。


また、先日テレビで観たデザイナー川崎和夫氏は、仕事場にはお笑いのDVDが欠かせない、と言っていた。
猛烈に作業を進める横では、綾小路きみまろのショーが結構な音量で掛かっていた。脳を動かす推進剤であり、疲労を回復させるために必要な風のようなものだ、これがないと集中できないのだ、というようなことを述べていた。


これらはかなり形は違うが、きっと、同じことなのであろうと思う。
テレビをつけながら、とか音楽を聴きながらなんて、といろいろな場面で抑圧が掛かってきたために、これらの話に、なるほどと思う部分を持っていながら、積極的に模索してきていないところがある。
音楽について、「好み」というのと少し異なる、(いや、それが本当の意味で「好み」なのかもしれないが)「フィッティング」を意識した付き合いを、ちょっと考えてみることにする。


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