ロンドン・プロジェクト


「学生連盟からオリンピック代表を送り出してメダルを狙う」ということを掲げよう、とこのような名の取り組みを設定することになった。


そうは甘くない、と思う。
しかし、掲げて動いてみて、初めて本当に「甘くない」ことがわかるだろう。
それがわからなければ本質的な前進もない。


目指す気持ちをわずかなりにも抱く者として、「甘くなさ」だけは漠然と他のスタッフよりもわかっている気がしているが、「感じ」でしかないと言われればそれまでである。
何を持って、それを「目指した」と言えるのか、自身を省みれば、恥じ入るような事実ばかりが相当の年月とともに積もっているばかりだ。


自らが行くよりも、誰かを行かせる方が、私にはずっと難しく感じる。
いけそうな奴をちょちょいと助けてやればいいのだから、という感じの方が支配的なように感じるが、それは違う。


「行かせる」には、なにか確固とした「確信」がなくてはならない、と私は思っている。
それは「何の」と問われても答えることのない「確信」である。
個別の技術や計画立案、困難の対処法など、それぞれに不安や不透明なものを抱えていても、全体として、目的を達成できるということについてはゆるがない、そんな「確信」だ。


それは選手自身でも同じではないか、と言われれば、もちろんそうであった方がいい、であろう。
しかし、選手本人は時にはそれが揺らぐことも「込み」である。
自分で、それと同じように見える「虚像」を築き上げることもできるし、そのことのプラシーボ効果を活用することも可である。
私はまだ、そのレベルの中で彷徨っている。その中ですら高くはないかもしれない。


しかし導く側には、(本来)こういう余地はない、と私は思っている。


それを持つためのツールは、いろいろあって、それが指導者としてのタイプをいろいろに分けているのだろう。
マネジメント的なものから自らの「確信」を引き出す人もいるし、技術論を集め分析することでそれを引き出す人もいる。
はじめは未熟な指導者として試行錯誤を繰り返し、その積み重ねを通じてそれを引き出す人もいるだろう。


今回の選考会で、関西からもプロジェクトの対象となる男子選手が出た。
関東の担当コーチで回る予定だったプロジェクトだったが、彼は私が引き受けねばなるまい。
自分のことも禄にコントロールできていない私に責任は負えるのだろうか。


私は共に、あるいは互いに格闘する選手として、良くも悪くも彼を引きずり込んだり私が引きずられたりしながら進んでいくことで、少しでも確信を強く持てる導き手となろう。
感心はされないであろうが、私には今そのスタイルしか取り得ないような気がする。


連盟として、このようなプロジェクト自体が初めての取り組みだ。
まずは選考した各選手の所属チームの了承を取るところからのスタートとなる。
果たしてどうなるだろうか。


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