80周年


同志社大学射撃部の創立80周年式典に招かれて出席してきた。


正式には、私ではなくOB会の会長が招待を受けたのであるが、体調がすぐれず出席が困難だと相談があった。
出席者は、おそらく年配の重鎮ぞろいと予想されるので、若輩の私は出る幕ではないと思って聞いていたのだけれど、同じ京都の射撃部の祝いの席であるから誰か出てほしい、他の部にも顔が広いのはわが部ではあなたくらいだから行ってきて、とお願いされた。
病に苦しむ方からの依頼でなければ断るところであったけれど、他に急に依頼できる方も見当たらず、私が行くことで心安らかになられるのであれば、と引き受けることにした。
同志社にも私なんかが代理でいいのか、と尋ねると歓迎するとのお返事をいただいた。


そんなわけで、石巻から朝の飛行機で戻ると、着替えてすぐに京都に向かう。


会場の京都タワーホテルに着くと、予想はしていたものの出席者の重々しさに圧倒された。
学長や体育会長、スポーツユニオンの代表、地方協会の会長、学生連盟や射撃連盟の理事長や副会長などを筆頭に、大学射撃部のOB会長クラスがずらずらと来賓として席を連ねている。
大学側のOB・OGの集まり具合も大変なもので、150人に迫ろうかという、ちょっとしたパーティーであった。


感じる「重々しさ」は、数や顔ぶれのせいなのかどうか、よくわからない。
祝賀会というものの持つあいまいさ、さらにその中でも、達成としてはさらにあいまいな「周年」を祝うことに意義を見出すプレッシャーのようなものがあるのだと思う。主催者は自ずとその組織の「有り難さ」や「箔」のようなものを誇示することが求められ、出席者はそれを積極的に承認することが流儀となる。
会にはそれぞれにこのような「振舞いのモデル」が底流にあるものだけれど、それを機会に他の目的に活用・応用することもできるようになっている。
いや、表向きに掲げたタイトルとは別に、人材の引き合わせなど、「応用」の方が会の目的である方が多いであろう。
しかし、今回は(少なくとも私にとって)そういう応用の幅が少なかった、ということが、感じる「重々しさ」につながっていたのだろうか。


そんな中に、一緒に学生の強化を担当しているJOCジュニアコーチSさんの姿があり、席も隣り合わせにしていただいていて、ほっとする。
ここしばらくの高校の強化や、再来週に迫った選考会のことなどについて少し話せた。
同じテーブルで初めてお会いする出席者とは名刺を交換し、後はおとなしく祝辞や挨拶を聞く。


私が「代表」して出席している大学は、東京大学を除けば、たいていの「歴史」ごとにおいて最も古くからの年表を引きずっていることが多いのだけれど、こと射撃部については、戦時中の活動中断が「断絶」となってしまったため、「その他大勢」の新生射撃部と同じ程度の歴史しかない新参者に過ぎない。
学生射撃、つまり日本の競技射撃の黎明期からのかかわりや達成についての話は、おおよそは知っていたがあらためて近隣のクラブの歴史に引き付けて眺めなおすと「へー」と思うことがいろいろあった。
日本の版権がやたらに拡大していた時期に行われた、第1回全日本学生選手権が開催された時期のエピソードなどは、年配のお歴々から「名門」とよばれるところで引き継がれて今に続く、ある種の「弊害」と紙一重の「ある雰囲気」の起源となっている感じがした。
第1回の覇者が同志社であることは、失礼ながら今日初めて知った。
なるほど、これは何かをしょわねばならないチームなのであるなあ、大変だ、と思った。


わが部は新参者であるから、気楽なものであるが、仮に戦前から断絶なく続いて最古参であっても、ただ「長い年表」を引きずっているだけで、こんな風にはならなかったかもしれない、とも思う。
大学自体が創立から東京大学に対する「カウンター」で、お上からの自由、伝統への固執を否定することを伝統とするような風が根深くあって、組織へのの「執着」みたいなものが極度に薄い。
機嫌よく泳がせるのをよしとする、ある種のいい加減さが身上で、逆にそれを邪魔されたら承知しないぞ、と息巻いている具合だから、なんというかフォーマルに威厳を保つことは軽く見るところがある。
「古うからありますねんけどそれだけでして、まあ昔は強い時もありましてんで。今も時々ぽこっとおもろいのが出てきて、つよなることもおますで。」てなところだろうか。


見事な進行に乗せられて、他所の伝統を讃えながら、自分(たち)のポジションや、いかんともし難い自らの性向を、あらためて確認したような気がした。


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