胎毛筆

胎毛筆



散髪に出かけて筆を受け取ってきた。


毎月、町の広報誌が10ヶ月検診に来る母子を撮影してコメントつきで紹介する、というちょっとしたコーナーがあって、うちの娘は(10ヶ月というには少し遅い)1月初旬に当たっていた。
これがが終わったら散髪しよう、と前々から話していた。
毛の先端がちょっと違う色をしていたり、だんだん毛の質が変化する様子が、わずか10数センチの間に刻まれていたりと、出生の記憶とともに、胎毛はパサッと切って捨ててしまうには惜しいと思わせる貌をしている。
いつも散髪に行っている店に「赤ちゃんの筆」という幟が立っているので聞いてみると、それほど大層なものではなくできるようだったので、頼んでみることにした。


そこで娘が髪を切ってもらってから、今日で一月半ほど。
先日、「できましたよ」と電話があったので、今日私の散髪がてら受け取ってきた。


振り返ってみて、自分の出生の記憶、に結びつく手形やアルバムなどの「モノ」に抱く感慨は、刻々と変化する。
まったく関心のない時期もあるし、たとえそれは短くとも、やたらと気になったり、感慨や励ましの源となる時期もある。


筆は、娘の髪の様子をよく映していて、よく出来ていた。
娘がこの筆を「馬鹿げている」ということはあるかもしれないな、とふと思ったけれど、親自身の「子を持った記憶」としてだけでもこれは十分だな、と雛人形の壇の下にそっと置いた。


[fin]