時間がない

北京の50m射場



5時に起床。
昨日の成績をまとめて、日本の協会にメールする。
5時55分に集合して、6時朝食。
ボランティアのSさんが、朝病院に行く関係で、食後Fさんととランチボックスの受取りに行く。
受け取りのサインをしたが、言葉が通じないのに漢字が通用するのは、改めて不思議な感じがする。


7時のバスで会場に向かう。今日はバスが2便しか運行されないためか、乗り込む選手が多い。
今日は保管庫も射撃場もすんなりオープンした。


予定通りに50m男子三姿勢競技の準備が進む。


始まる直前に、昨日日本チームの弾薬を引き取る約束をしたモンゴルチームのムンクコーチがガングヤックさんというもう一人のコーチを伴って現れた。
ムンクさんがいまから中国国内のほかの都市に行かなければならなくなったので、弾はガングヤックさんにお願いします、とのこと。
メールボックスのお知らせに、この競技でモンゴルの選手が端の射座で「テスト」をするので了承してくれ、というのがあったので、質問がてらムンクさんと少し話をした。
遠征にかけるお金がないモンゴルにとって、飛行機を使わずに参加できる隣国での国際大会は、費用が抑えられるために、出場したい選手が殺到する。今回は調整に苦労した挙句エントリー過剰になってしまったのだという。
今大会では団体メンバー以外は撃てないシステムになっているのだが、連れてきておいて撃たずに返すわけにもいかず、交渉した結果「テスト」という名目で脇の射座でオープン参加のような形をとってもらったのだという。


試合が始まった。
H君はまずは順調に392。B君はやはり不調。377に終わる。I君もよくない。
立射はそれぞれに苦戦。
膝射の本射に入ったところで、Fさんと私は交代で休憩を取る。このタイミングを逃すと、今日は帰りのバスまで休めるタイミングがない。


ボランティアのSさんへの寄せ書きをする。
選手たちは、意外や、きちんと中国語を電子辞書で調べてメッセージを書いていた。


30分ばかりの休憩を終えて射撃場に戻ると、B君は茫然自失。H君も低調な結果に終わっていた。I君はは最終シリーズで意地を見せたが、1131どまり。
決勝進出ラインは1164と、まず日本国内では見ることのない高いレベル。
今日のように、無風晴天のコンディションでは、経験の有無を抜きにしてこれくらい撃てねばならない、という、日本を置き去りにした世界の現実が目の前にある。


女子は伏射のスタンバイに入る。
男子には荷物を片付けさせ、休憩を取らせる。
男子の分だけで残った弾数を調べ、まとめてモンゴルのラウンジに持っていく。


射場の事務局を覗きに行ったのだが、いつもの担当者が見当たらない。スタッフの中にNさんという精華大学に留学している日本人学生女性がいて、用件を尋ねてくれる。見かけたら、日本チームに教えてくれるとのこと。
女子の準備の様子を見に行っている間に、Nさんが日本のラウンジに連絡に来てくれた、というので、Fさんと再び事務局に向かった。


なんだかよくわからなかった「銃器のチェックアウトのために必要な『Clarify』手続き」とは、結局、最後に銃を持ち出す際にリスト照合すればいいだけのこと、ということがわかる。
・・・なんだ、2日間心配していたが、結局はじめに思っていた手続きで済むのだとわかって拍子抜けした。担当者も、説明しながら申し訳なさそうな表情だった。
男子選手たちにはその旨伝えて、あらためて荷物の整理と保管庫への片づけをするように言う。


最終種目となる女子伏射競技が始まった。
無風。三姿勢のときと同じ、絶好のコンディションが続いている。
S選手は、1シリで8を3発もだして万事休す。
M選手は順調に滑り出し、期待が膨らんだが、ペースが上がらない。立ち上がってからおかしくなり、結局平凡なスコアに終わった。
N選手は、悪くないのだが100も出ない。後で聞くところによると、構えに常にかすかな違和感を抱きながら苦しんで撃っていたようだ。589の10位。
3種目とも1点差で入賞に届かなかった。本当に文字通りあと一歩であった。悔し泣きに暮れる。


片づけにかかる。選手村にスーツケースを持って帰る者はその準備をする。
すべて終えて、射場前でトロフィーとメダルを出して記念撮影をした。
4時半発のバスに無理やり荷物を押し込んで帰ることが出来た。


着いてすぐ、5時半までの30分で日本へ今日の記録をまとめて送信する。今朝送った昨日の記録が届かずに戻ってきており、これも再び送りつける。
5時半から夕食。食後、6時半からミーティングをする。
7時には宿舎にバスが迎えに来て、クロージングセレモニー会場へ移動、という予定になっている。正に分刻みのスケジュールである。
この後は未明に再集合するまで、集まって連絡する機会はない。
ミーティングでは元の回収作業、荷物つくりにあたっての注意、午前2時に荷物とともに集合する旨を伝えた。


ミーティングを終えて、下に降りると、バスではなく徒歩で大講堂に移動することになっていた。
15分くらいは歩いたろうか。大学の構内の様子がよくわかる。私自身が在学していたことの母校とオーバーラップするような風景で懐かしい。
開会式は屋外であったが、閉会式は講堂の中で行われた。
試合中の選手の写真でコラージュしたFISUのエンブレムがエントランスに大きく飾られていて、日本選手の顔もたくさんそこに使われていた。私の写真もあって、少しびっくりする。


見事に編集された大会の模様をまとめた映像で開幕し、スタッフが趣向を凝らして進行をする本格的なセレモニーだった。
挨拶の後、5つの色でテーマ付けられた、演奏や演舞が繰り広げられた。
胡弓のアンサンブルなどは、本当に楽しくて見事な演奏だった。
セレモニーは、たっぷり1時間以上あったろうか。


閉式後、講堂の前でスイスチームと別れを惜しむ。
コーチのペーターさんとは、来年のベオグラード大会での再会を誓い、その前後のヨーロッパの忙しいスケジュールなどの話を聞いた。
スイスの選手たちから、ユニフォームの交換を持ちかけられて、日本の選手たちは少しためらいながらも交換を始めた。
「いいですかね」と一応監督の私に断ってくるのだが、想定していなかったのでどうしたものか少し困る。
まあ、日本のユニフォームが欲しいと言ってもらえるなんて、名誉なことじゃないか。大して英語もしゃべれないのに、そこまで親しくなれて、友愛の証を交わそうと言うなら、一生のうちにそうはない、値打ちのあることだ、と思いながら、「交換するのは構わないけど、後で日本のも欲しい、ってなっても知らないぞ」と言う。
私も、スイスの年配のチームリーダーの方に、「私のユニフォームと交換してくれませんか」と持ちかけられたけれど、「私はこれ1着しかないので、来年、2着目がもらえたら、交換しましょう」と、迷いながら断った。
ペーターさんは、今回は本当にありがとう、とスイスのウェアをくれた。交換するものがないけれど、というと何を言ってるんだ、これは感謝の印だもらっておけ、これはユニバチームのじゃない、ナショナルチームのだ。選手たちが交換してるのとはちょっと違うぜ、と言う。
練習もできず、空いてしまったアジアの異国での1日を、一緒にツアーしたり、選手村に戻るルートを教えてもらったり、選手たちが楽しく交流したりできたことへの感謝だろうか。チームを率いる経験に乏しく、国際大会でどうしたらいいかよくわからず不安に過ごす中で、ヨーロッパのひとつのチームを間近に見ることができただけでも、私にとっては貴重な経験であったし、何かあったら尋ねられる、という心強さがあった。感謝を述べてありがたく受け取る。


さて、選手たちは、おおよそ荷物の整理は済ませてきたようで、スーパーへ買出しに出かけ、これから韓国チームと部屋で打ち上げるらしい。
Fさんと私は、まだ自分の荷物の整理はこれからである。出入国の山場を控えて、1時間でも寝ておきたいところだった。


構内のスーパーで選手たちと別れ、部屋に戻ろうとしたが、途中でFさんが、「鍵がない」と言う。
選手たちが交換したウェアのポケットに入れたままかもしれない、というので、大変である。
さっき別れたスイスチームを探して二人で走る。偶然何人かがいるところを見かけて、声をかけたが、交換相手だったと思しき選手がいない。その選手はスーパーに行ったというので、スーパーに走って戻る。
スイスチームの赤いウェアを着ているのが日本選手で、白の日本チームのウェアを着ているのがスイス選手なので、なんだかややこしい。
売り場のところで彼女を見つけることができ、ああよかった、と鍵のことを尋ねると、ない。
となると、交換前に閉会式会場で落としたか。
ちょっとした道のりを講堂に歩いて戻る。もう、10時も大きく回りすっかり夜なのだが、構内は人や自転車の往来が多く、なんだか活気がある。夜遅くまで随分活動的である。しかし、さすがに講堂の近辺は人気がなく、薄暗い。
会場は、業者とスタッフで撤収作業が進められていた。入り口は閉まっていて、楽屋口からそろっと中に入る。
座っていた席あたりを見て回るが見つからない。だめかな、と思っていると、「すみません、かばんの中にありました。」とFさん。
なんだ・・・。


まあ、慌しく起きてはシャトルに駆け込み、戻ってきても寝る間際まで事務仕事に明け暮れた日々の後である。
ぶらぶら夜に構内を散歩できたと思えば、こんなことでもなければできなかった結構な時間の使い方だ。
寝る時間はなくなってしまったけれど、ほっとして部屋に戻る。


戻り際に、事務局に国旗を返してもらいに行くと、今回の参加証と表彰状です、チェックアウトの時には事務局からみなさんにプレゼントがあるので、受け取ってくださいね、とのことだった。参加証もプレゼントも意外だったので、とてもうれしい。
事務局はまだまだ閉会式の後片付けにチェックアウトの案内と、真夜中も近いが相変わらず忙しそうだ。でも、いよいよ終わりだ、という安堵感も漂っていて、ああ、私たちと同じだなあ、と思う。


参加証を配ったり、カメラのデータを集めたりしながら、後片付けをしていると午前2時まではあっという間だった。
2時10分前には、全員が身なりを整え、荷物とともに集合した。ボランティアのSさんは、こんな時間にもかかわらず、来てくれた。
A選手から寄せ書きと日本チームからのプレゼントを渡して、感謝を述べる。
鍵と寮の滞在証を集めて先に「1階」に降りてチェックアウトの手続きをする。その間に部屋のチェックが入ったようである。
その後、簡易の金庫に集めていた貴重品類を選手たちに返却し、パスポートと日本への入国審査用紙、銃の輸出許可証を手荷物できちんと管理することを確認して、今度は全員で「1階」に再び降りる。
スーツ姿での集合写真を、メダル・トロフィーとともに受付の広いエントランスで撮ってから「0階」に降りた。


降りる間際に、エレベーターでクリスタルのトロフィーが壊れてしまった。
撮影がすべて済んでいたからよかったが・・・なんと短い命。帰国してから修理できるかもしれないので、そのまま大事に持ち帰ることにする。


台湾チームと共に、空港に向かう。今まで乗ったことのないような新しく豪華なバスであった。普段乗っていたシャトルは、私が子供だったころから走っていたこと間違いなしの年代もので、しかもところどころ破損の目立つ、ちょっとものすごいものだっただけに、驚いた。
入国時と同様、警察のスタッフと同行する。
手続きには滞りなし。税関の別室で、入国時と同様に書類を作り、それとの照合作業をする。ARの弾を処理してこなかったが、残弾を大まかにチェックして封印された。日本の入国時には、申告して廃棄せざるを得ないだろう。
銃器以外の機内預けの荷物については、重量についても問題なく、すんなりと預かってもらえた。
銃器は、規格外荷物専用の預け場から預けることになるが、航空会社・税関との連絡がうまく取れておらず、一向に受付けてもらえず、待たされる。
同行している警官が、カウンターの空港職員に「問題はないんだ、早く手続きしてやってくれ」と掛け合ってくれる。
ほかの規格外荷物を持った乗客が後ろに列を作り出して、申し訳ないので先に通してやりながら待つこと10分、動き出すと一気に片付いた。


搭乗時間まで約1時間半。
ちょうど手続きが終わるころに、すっかり夜は明けて、朝の光が空港中に満ちてきた。
50分前まで自由時間とし、集合場所を決めた。
Fさんと、集合場所から一番近いスターバックスで一息つく。
あとは成田での入国手続きを残すばかり。
眠気の峠も越えて、久しぶりにレギュラーのコーヒーにほっとした。


この後、もう一山あるとは、この時は知る由もなかった。


[fin]