大移動の記録(大分−東京−北京)

北京空港



7時に私の泊まっている宿舎のロビーに、同宿の他県チーム所属選手2名と集合。京都のチームに見送られて、出発した。二つの宿を回り、5名すべての選手と合流してまずは射撃場に向かう。銃器保管庫から各選手銃器を受け取って、Hコーチに見送られて、射場を出発。ICまで戻って、高速で大分空港に向かった。
レンタカーの空港営業所で、ガソリン代など清算を済ませて空港入り。10時着。


カウンターでチケットを発券してもらい、荷物の整理・施錠をする。
選手の一人の荷物が重い疑いがあり、手荷物に大幅に入れなおさせた。国内線は国際線よりさらに預け荷物について重量制限が厳しい。こんなところからオーバーチャージは避けたいところ。合宿にも体重計を持ち込んで、自分の荷物の重さについて具体的に注意を喚起した甲斐あって、選手たちはよく荷物をコントロールしてきていた。


用意ができて機内預けの手続きに行くと、やはり係員は重さについて厳密な計算を始めた。35kgの免責についても、トラベルエージェントの手紙を見せてようやく納得してもらった。
海外遠征経験のある選手が、メモ帳を片手に荷物の重量計算とカウントを進んで引き受けてくれる。係員との銃器のやり取りも、積極的に手伝ってくれて助かる。
私が、大きなリュックひとつにして、預け荷物なしにして、6人全体がきっちりぎりぎり35kgで収まりそうな計算になった。


係員は、エアと弾が装填されていないかのチェックに相当神経質になっていた。確認のために空港内派出所の前で開梱させられたのには驚く。
そんなこんなで荷物預けは、無事に完了した。


この時点で11時前。空港の食堂で昼食を取る。うどんやとり天など、一同、大分らしいものを食べる。
11時30分にゲートへ。手荷物検査は比較的スムーズに進んだが。数名の選手は鞄を開けて工具やバットプレートを確認された。
予定通り12時15分に離陸。羽田にはほぼ予定通り13時半ごろに着いた。
エージェントの指示によると、出国手続きの時間を十分に確保するために、2時半には成田行きリムジンバスに乗らねばならない。選手たちにそれを伝えて、全員急いで行動する。
スムーズに銃器・弾薬を受け取り、13時50分にゲートを出た。
手分けして、のりばを確認し、券を買い、14時発の成田空港行きリムジンに乗りこんだ。なかなかのチームワークと行動力である。


予定よりも早く、3時15分ごろに成田空港に着き、まっすぐエージェントのカウンターへ。担当者と手続きを始める。
Eチケット・保険・入国届・名札を受け取り、税関の事務所へ。一人ずつ銃の出国手続きをした。
銃器の確認は、すんなり15分ほどで終わり、書類を作成してもらう間に、荷物の機内預け手続きに向かった。


列はさほど長くなく、すぐカウンターにたどり着くが、銃器についての連絡がなかったらしく、その確認に時間がかかる。
重量は問題なし。カーゴの担当者が、銃の重量だけでなく、銃ケースのサイズまで測っていたのが印象的だった。
連絡がついてからは、すんなり手続きが済んだ。エージェントの担当者が手続き中に税関に書類をとりに行き、カウンターがその書類のコピーを取ると手続きは終了。
搭乗について説明を受けて担当者とは別れた。
この時点で4時半。


5時まで自由時間にする。
元への換金について検討したが、昨日から北京入りしている先発隊のFコーチからの情報より2円ほど高いレートだったので換金はやめた。
私は選手2名と、携帯を向こうでも通話できるようにする手続きに電話会社のカウンターに行った。
他の3名は、大会で他国の選手とピンズ交換するのに備えて、日本のピンズを買ったり、先発隊の「寒い」という訴えに応えて、使い捨てカイロを買ったりしていた。


手荷物検査ゲートを5時過ぎにくぐった。大分の時よりもスムーズに運んだが、荷物にいくつか液体の入っていた選手が、一部荷物の預け直しになって少し手間取った。
工具やニーリングロール・スタンドを入れている選手についても再びチェックがあった。


予定通り6時過ぎに離陸。
機内で選手たちに、向こうで必要になる日録・地図・覚書をそれぞれ配布した。
一日の出来事について、遠征中は毎日食べ物やできごと、感じたことを記録してもらうことにした。
選手たちは、機内上映されていたインディ・ジョーンズクリスタルスカルなどを観て過ごしていた。


日本時間で9時20分ごろ(現地時間の8時20分ごろ)、予定通り北京空港到着。
機体を降りてすぐの連絡橋に一人の選手の名前をローマ字書きした紙を持ったスタッフがいて、すぐ公安の係らしい人にタッチされる。
入国審査後、スーツケースをピックアップして、税関の入り口へ。ケースの数と内容(銃の数、火薬ケースの数)を確かめてから全員が全荷物とともに中に案内された。
広い通路に待たされて、警察関係の人がいる部屋へは私だけが入る。


中国語の銃器リストの白紙の書式を見せられて、この紙は持っているか、と尋ねられる。
探すが、私が預かっている書類の中には、組織委員会に提出してある、英文リストの写ししかない。
なければ書け、という。書式には「所持者」・「所持銃」とあるので、少し質問して困っていると、チームリーダー名でチームの銃を列記すればいいという。
それならば、とリストの上から順に銃番号・弾薬数を写して署名する。
銃番号を確認する、というので、リスト通りに選手を一人ずつ順に部屋に入れて、ケースを開けさせて番号をチェックしてもらった。
次は弾薬、というのでまたはじめから。そのときに、エアの弾についても缶の数の確認があった。


経済産業省に申請する書類と、大会本部へのはじめの申請弾数が異なっていて、あとで大会本部に修正を出していた選手がいたのだ、中国体育協会への書類は修正されていなかったようで検査がストップした。日本の経済産業省の書類でさえ、この類は修正が難しい。はじめにきちんと申告しなかった側に問題があり、やむをえないと判断する。一応、修正を9月12日に大会本部には申請したことを伝えた上で、断念することにする。本人は、すでに日本できつめに注意していたので、納得していた。


当局サイドとしては、申請弾数より多かった分は持ち込めないので、ここで預けます、という書式に書いて、帰国する際に返却する、という方法だったようだが、日本に弾薬は持ち帰れず、全員がゼロにして帰国するのだ、ということを説明する。
少し驚いたようだったが、そういうケースは考えていなかったようで困った様子。
英文で、「超過したこれらの弾は要らないので、放棄します」ということを書いてくれと白紙を出された。今度はこちらが少し困ったが、選手に電子辞書を用意してもらって用意をすると、JALのスタッフで日本語のできる中国のスタッフが間に入ってくれて「『預けます』という書類を書いて、持って帰らない、というのでいいではないか」、と警察に聞いてみてくれた。困ってセンターに問い合わせようとしていた当局側も、助かった様子で、そこに落ち着く。
放棄する弾を選び、記入した書式を持った係官と私で二人、センターに出頭して決済を受け、控えをもらう。


少し時間がかかったが、以上で税関の手続きは終了。


途中で入ってきたオーストラリアチームの検査が始まり、われわれは荷物のピックアップ場に戻された。
先ほどの日本語のできるJAL職員が、私がお手伝いできるのはここまでです、あとはあの帽子をかぶっている警官が案内してくれます、と言って行ってしまう。礼を述べて別れたが、どうもその制服警官の様子がおかしい。結果的にはその警官は関係ない人たちだった。
大会のスタッフもおらず、がらんとした空港の荷物引き揚げ場で、どうしたものかと少し困る。
携帯のセットをして宿舎で待っているFコーチに電話してみた。
大会スタッフのボランティアが1国に一人ついてくれるはずなのでその人を探さないと、という。
空港外に出ることも考えたが、税関のところにまだオーストラリアチームがいるはずなので、再度中に入り、尋ねてみると、オーストラリアの手続きが終わったら一緒に行く、という返事だった。


現地時間の10時過ぎになってようやくオーストラリアの手続きも終わり、合流して空港外に出た。
日本担当のボランティア、Sさんと合流して、警官とともに、外で待機していた2台のマイクロバスにそれぞれ乗り込む。
シートのところにすべてのスーツケースや銃を載せるのに少し苦戦したがなんとか10人と警官3人とSさんが乗り込めた。


北京射撃館に移動。高速道路を通って1時間強。
少しSさんと話す。今回の選手村になっている精華大学の院生で現代政治学、中でも安全保障について研究しているのだという。基本的に英語で話すが、日本語も少しなら話すことができる。日本の漫画への関心から少し勉強しているのだという。


射撃館は闇の中に巨大にそびえていた。
バスを降りると、銃器保管庫と弾薬保管庫だけに明かりが灯り、警官やボランティアの学生スタッフが待機していた。
銃器保管庫のカウンターにPCに接続したUSBのカメラがあって、所持者の写真をその場で撮って、リストに追加。銃番号を照合すると、銃ケースとIDに貼るバーコードシールを発行してくれる。バーコード管理は出入庫がスピーディで、出庫の際に持ち主の顔写真もぱっと画面に出る。登録の手際もよく、感心した。
弾薬は、弾薬庫というよりはロッカールームのようなところに連れて行かれ、1つのロッカーの鍵を渡されてそこに保管した。鍵は大会中チームに預けられる。
荷物がそこにいくつか置かれていたので、「今ここに競技用の荷物を降ろしてもいいか」と頼み、射撃荷物を降ろした。


選手村となっている精華大学に向かうために射場を後にする頃には、もう12時をすっかり過ぎていた。
1時間足らずバスに揺られ、大学構内に入る。ボランティアのSさんを頼りに、選手村となっている学生寮に入り、ひとまず日本チームが滞在する4階に上がった。そのフロアはエレベーター前がちょうど大会事務局の入っている部屋で、ここにはこの後何度も足を運ぶことになる。


全員のパスポートだけ預かって選手たちを廊下に待たせ、チェックイン手続きをしに、日本で言えば2階に相当する「1階」にSさんと降りた。
正式なIDを発行してもらう手続きは翌朝、受付が正式にオープンしているときに行うため、学生寮滞在のための手続きだけとなる。
ここで、先についていたコーチのFさんと落ち合う。


すでに昨日聞いた「Unofficial Trainingができない」というショッキングなニュースを再確認し、明日に向けてどうするか相談する。
少し遅れてチェックインに来たオーストラリアチームは、そこで初めてこの情報を聞いて、スタッフに軽く食って掛かっていたが、すぐにあきらめて、じゃあ長城にはどうやったら行けるんだ、と質問していた。
地球のどこからやって来たって、驚くことも、あきらめて考えつくことも、みんなそんなに変わらない。


チェックインが終わって4階に戻り選手に鍵を配る。何人部屋になるかがわからなかったため、部屋割りなどもさっと決められるように、密かに考えたりしていたのだが、個室だった。
IDが明日の9時以降に発行というが、それでビュッフェに食事に行けるのか、と尋ねると、「あ、そうですね・・・」ということになり、今度は大会事務局で仮のID発行を待つ。


何だかんだで部屋に選手が散ったのは午前2時をまわる頃だった。日本なら3時過ぎだ。
Fさんとここまでの情報を交換してから休む。


長い一日だったと思ったが、ここまでは大変なうちには全く入らない。
部屋には書棚のついたしっかりした机とベッドとテレビがあった。小さなクローゼットと流し台もある。天井が高く、古いが清潔にはしてある。
窓から見えるキャンパスの様子は、自分の研究室時代を思い起こさせて、何だか懐かしい。建物の古さなんかはちょうど同じくらいだ。
日本に比べてぐっと気温は低く、吐く息も白くなるくらいの寒さだ。部屋の暖房はほとんど効かない。
長袖シャツにフリースのベストを着て、薄い蒲団をかぶって短い眠りにつく。


[fin]