わたしと高校生と射撃


3月の末に例年、全国高校選抜選手権、という高校生の全国大会がある。


私は、大学で射撃というスポーツを始めたということもあって、高校の射撃部とは縁遠く感じている。
自分の高校生活を振り返って思い浮かべる「高校生のクラブ活動」のイメージと、自分のやっている「スポーツとしてのライフル射撃」や、試合でよく見かける「遠征してきた高校生」の姿は、いまだに私の中では上手く結びついていない。


私の中学・高校生時代の「部活」の記憶は実にささやかなもので、体育系に入っているときは「市大会」・「府予選」止まりだったし、その後は文科系の「陶芸七宝部」員として、物理実験室で粘土をこねていたばかりである。他府県へ(それも遠くへ泊りがけで)遠征する高校生、というのは、当時の私にとっては、間違いなく「特別な選手」であった。
今となっては、選手生活の中で、試合の対戦相手となることもあれば、府県のチームには必ず一人や二人はふくまれ、遠征に一緒に行くこともある。「高校生射手」の存在自体には慣れっこになっている。幼さの残る子が多くて、感覚頼りの、技術的に稚拙な選手が少なくなく、「特別」な子ばかりではないことも知っている。
なのに感じてしまう、このちょっとした違和感はたぶん、スタートの段階から「射撃」することを支持してお金も出してくれている、親なり学校なりが、彼ら一人ひとりの後ろにいる、ということの「特別さ」を感じることからきていると思う。


射撃は、社会的な認知が低いのに道具がたくさん要る。人々に勧めるにあたっては、相当な「二重苦」である。
「道具の要るスポーツ」というだけなら、そう珍しいわけでもなくて、たとえば野球なんてのも、体育でやらないスポーツでありながら相当に道具の要るスポーツだ。


大学生ともなれば、好きで始めるスポーツに金が必要なら、それくらいは十分に稼ぐことができるし、まあそんなもんは自分で稼げ、というのが一般的な見解だろう。大人の道楽と大きな違いはない。
しかし、高校生までとなると、少し違う。ことに部活となれば、高校1年生から、ということになるから、自分の稼ぎで道具をそろえて、自分の意思だけでスタート、ということは普通できない。ということは、射撃の場合、銃や射撃用のウェアなんかを親の金で(まあ、貯金してあったものだとしても)買ってもらって始める、ということだ。
・・・バットやグローブと同じ・・・と思いにくいのは、(たとえ射撃関係者でも)私だけではないだろう。


私が射撃スポーツを始めたのは、まさに偶然によるものなのだが、その時点に感じたのは、「さすが大学生ともなると『大人の道楽』みたいな、こういう高級な感じのスポーツもありなんだなあ」という感慨だった。ゴルフや熱気球、馬術、自動車といったクラブの名が並ぶ「大学」というところに対して、「ちょっと背伸びした感じ」をかみしめたのだ。
今では「いろいろな始めかた」を事実としては見聞きして知っているけれど、私の中には「そういうもの」を抜きに、「射撃」というスポーツの「はじまり」はありえないと思っているところがまだあるのだろう。


スポーツは、それが社会で高く認知がされてこそ、親が道具を買うお金を出してくれることもあるし、学校にクラブができたり、そのクラブに対して学校や後援会からの支援が生まれたりもする。
射撃スポーツの内側にいる私ですら、射撃に対してそういうものが自分たちに対して払われることを信じ切れていない状態なのに、それを一身に受けることを「前提」にした子達の集まりが「高校生射手」、ということなのだ。


それぞれの子らがどんな子で、どの程度の腕前か、ということと別にして、いつまでもちょっとまぶしく見えるのは、そういうわけである。


そんな「まぶしい子等」の中でもよりすぐりの全国から選抜されたメンバーによる、全国大会後の強化合宿の講師に来てくれないか、という話があった。
平日であることや、大学生の選抜合宿と期間が少しかぶっていることもあって、調整の難しさも、迷いもあったのだが、結果的に受けることになった。


高校生の指導は、これまで近畿圏内では府県単位だけでなく選抜チームを相手にもやったことがあるが、今回は彼らの特有のポジションに向けた「メッセージ」を意識して臨みたいと考えている。


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